ボストンの日本男子表彰台は30年ぶり
日本の男子マラソン界に久々に明るい話題が出てきました。4月17日に行われたボストン・マラソンで大迫傑(ナイキ・オレゴンプロジェクト)が2時間10分28秒で3位に入りました。
日本の男子選手がボストン・マラソンで表彰台(3位以内)に上がるのは、1987年に優勝した瀬古利彦以来。だから、すごい結果なんだろうと推測はできるものの、記録を見たら2時間10分を超えています。
今回の大迫の何がすごかったのか、そして、ボストン・マラソンってどんな大会なのかを説明していきましょう。
もともとは学生駅伝のスター
大迫は東京都出身で今年26歳になります。駅伝の強豪、長野の佐久長聖高校時代から名をはせていて、高校2年の時には全国高校駅伝で佐久長聖高校を初優勝に導いています。
大迫の名が全国区になったのは、早稲田大学時代かもしれません。注目度の高い箱根駅伝に4年連続出場し、1、2年生の時にともに1区で区間賞を獲得。2011年には大学生のスポーツの祭典・ユニバーシアードの男子1万メートルで優勝もしました。
大学卒業後は、やはり駅伝の強豪である日清食品グループに入社。社会人1年目の2015年元日にあったニューイヤー駅伝の1区で区間賞を獲得。鮮烈な社会人デビューを果たしたのですが、その2カ月後、新たな鮮烈が走ります。
日本ではなく、世界へ
それは、日清食品グループを退社、という発表でした。
米国のオレゴンで世界のトップ選手たちと練習をするナイキ・オレゴンプロジェクトに参加し、プロランナーとして活動していくというのもの。海外に拠点を置けば、レベルの高い選手と練習もできるし、日本の実業団のネックである「駅伝に出なければならない」という縛りからも解放されます。
日本長距離界の低迷の要因の一つと言われていた駅伝偏重主義に一石を投じる形で、大迫は日本から飛び出していきました。
ボストンは世界最古の大会
大迫が米国へ渡るまでのヒストリーを、ざっと説明しましたが、今回の偉業を理解するためにも、ここでボストン・マラソンのことについて説明しましょう。
ボストン・マラソンを語る上で欠かせないのが、その歴史です。第1回は1897年ですから、19世紀に始まっています。今年で121回。マラソン大会としては世界最古の大会となります。
ちなみに日本で現在開催されているマラソン大会で最古のものは、1946年に始まったびわ湖毎日マラソン。その半世紀ほど前に、ボストン・マラソンは始まったことになります。
今でこそ、世界中にマラソン大会がありますが、かつてはマラソン大会の数は限られていました。さらに権威があるものと言えばわずかであり、戦後の日本にとっては五輪に次ぐ大会としてボストン・マラソンはとらえられていました。
だからこそになりますが、戦後の日本はボストン・マラソンに「日本代表」を送り込んでいます。今、マラソンで日の丸をつける、日本代表を背負う、となれば五輪、世界選手権、アジア大会などになり、通常のマラソン大会に代表を送りことはありません。当時はそれだけ、ボストン・マラソンを重視していたと言えると思います。
それは結果にも表れています。1987年の瀬古利彦以前の日本人優勝者は、1951年の田中茂樹、53年の山田敬蔵、55年の浜村秀雄、65年の重松森雄、66年の君原健二、69年の采谷義秋になり、戦後に多くなっています。
世界のメジャー大会の一員に
1970年以降、世界で大きなマラソン大会が続々と生まれていきます。
ニューヨークシティー、ロンドン、シカゴ……。そういった主要な大会をまとめ、ポイント制にして争うという仕組みが2006年に始まりました。それを「ワールドマラソンメジャーズ」と言います。
当初はボストン、ニューヨークシティー、ロンドン、シカゴ、ベルリンの五つでしたが、2013年から東京も加わり六つになっています。
いわばテニスの四大大会のマラソン版みたいなものです。この六つのレースで総合優勝を決めたりしますし、賞金も高かったりするので、レベルの高い選手が集まったりします。
その意味で、大迫の3位というのは、近年にはない日本男子の快挙なのです。ただ、このボストン・マラソン、ほかのコースとは少し様相が違います。それが大迫のタイムにも影響しているかもしれません。
ボストン・マラソンで3位に入った大迫傑 彼の何が快挙なのか(2)へ続く