競技人生のスタートと学生時代の功績
1962年生まれの山本博選手は神奈川県横浜市の出身。中学校時代アーチェリー部に加入することで競技人生をスタートさせる。
成長スピードが極めて早く、また貪欲に技術向上を求めた山本選手は、進学した横浜高校でインターハイ3連覇を果たした。
教員を志望していたこともあり、一浪して日本体育大学に進みアーチェリーを続行、
3年時の1984年に開催されたロサンゼルスオリンピックへ出場した。
五輪初出場にして銅メダルを獲得した山本選手は、一躍世界に知られるアーチェリー選手となる。
この日体大時代には、インカレで個人の4連覇という金字塔も打ち立てている。
教育者、指導者としてのキャリア
大学卒業後、母校の日体大で体育学部助手に就任した山本選手。その2年後にはソウルオリンピックへの出場も果たした。
1989年からは大宮開成高校の体育教諭に着任し、教員として職務の傍らアーチェリー部の顧問を務め、指導者として若い選手の育成に尽力。同校をインターハイ優勝に導いた功績を持つ。
大宮開成高校で約17年間教員として過ごし、その間に3度のオリンピックにも出場、2006年から日体大の女子短大部で助教授に就任した。
アーチェリー選手として国内外で活躍しながら助教授業もこなし、更に2011年からは弘前大学の大学院に入学して医学研究にも勤しむ。
2013年には日体大の教授に昇格、アーチェリー部の部長としてインカレ優勝に貢献した。
弘前大学大学院の医学研究科博士課程を2015年に修了、医学博士の学位を取得している。
スターダムにのし上がったロス五輪、失意に終わった3度の五輪
山本博選手がオリンピックに初出場を果たしたのは1984年のロサンゼルス大会だ。
当時大学3年生だった山本選手だが、この大会で見事銅メダルに輝く。
アーチェリーの日本選手では史上2人目となる五輪メダリストが誕生した瞬間だった。
この功績で一気に注目を集める存在となった山本選手だが、以降に出場した3度のオリンピックでは思うような結果を残せていない。
金メダルを狙った1988年のソウル大会では8位入賞、1992年バルセロナ大会は、1回戦で1989年の世界選手権を優勝したザブロドスキー選手と対戦し惜敗、17位という結果に終わっている。
挽回を期した1996年アトランタ大会も19位と、失意のオリンピックが続いた。
20年の時を経た快挙。「中年の星」が残した功績
アトランタ五輪を19位で終えて以降も山本選手の低迷は続いた。
2000年シドニー大会の出場を賭けた国内大会でもスランプを脱却できずに敗退、オリンピック出場選手から落選してしまう。
選手引退も頭をよぎった苦しい時期、結果至上主義に陥っていた自分自身に気がついたそうだ。
アーチェリーでは目の前のことをただ純粋に、真剣にやり抜くことを心に決めてから結果が伴い始める。
2002年に釜山で行われたアジア大会の優勝を皮切りに再び上昇気流に乗り、遂にオリンピック出場選手にも復帰した。
それが銀メダルを勝ち取った2004年アテネオリンピックだ。
バルセロナの銅メダルから20年の時を経ての快挙は、「中年の星」が残した偉大なる功績だ。
山本博選手は日本が世界に誇る存在
山本博選手は現在のところ、日本のアーチェリー選手においてオリンピックで2度のメダリストとなった唯一の存在だ。しかしアーチェリー選手としての実績はそれだけではない。
1990年には全日本社会人選手権の男子70mで344点をマーク、当時の世界新記録を更新した。この得点は現在でも日本記録として残っている。
2006年のW杯トルコ大会では男子団体に出場して優勝。その後、世界アーチェリー連盟が発表する世界ランキングで、日本人として史上初の第1位にランク付けされた。
世界選手権の出場回数14回、連続出場回数13回はともに世界記録だ。
まとめ
国内外でこれだけの実績と記録を持つアーチェリー選手は、今のところ山本博選手をおいて他にいない。また選手としてだけではなく指導者、更には教育者としても大きな功績を残し続けている。
アテネ五輪で銀メダルを獲得した時、「20年かけて次は金を」と宣言した。今後も更なる活躍に期待しよう。