アーチェリーとの出会いは高校時代
アーチェリーの古川高晴選手は1984年生まれ。青森県出身の寡黙な青年がアーチェリーと出会ったのは高校時代だ。
元々は弓道を志していた古川選手だが、進学した青森東高校には弓道部がなく、
「同じ弓だから」という、どちらかといえば軽いノリでアーチェリーを始めたそうだ。
しかし、程なくアーチェリーの魅力に取り憑かれた古川選手は「練習の鬼」と化する。
朝は毎日7時半から自主練を開始し、放課後は的が見えなくなるまでひたすら矢を射ち続けた。
それだけではなく、元来口数が少ない古川選手が教室で話すのはアーチェリーのことばかり。
同級生で、現在は青森東高校アーチェリー部の顧問を務める小中智佳子教諭も、そう証言している。
こうした努力が実り、高校3年時の2002年にはジュニア選手権に出場、高知国体では見事優勝を果たした。
大学進学、初の五輪出場を果たした「練習の鬼」
青森東高校を卒業した古川選手は近畿大学に進学。1年時の2003年から全日本王座決定戦に出場した。
翌年開催されたアテネオリンピックにも出場し、個人で2回戦進出、団体で8位の成績を残した。
これらもやはり重ねに重ねた練習の賜物だ。いつまでも1人残って矢を射ち続けるため、冬になると近畿大学の練習場には古川選手専用のストーブが出されたそうだ。
自らも「ストレスは練習で晴らす」と公言するほど練習好きで知られる古川選手は、私生活でもアーチェリーマニアといわれている。
アーチェリーの技術論や魅力といった話題になると話が止まらないばかりか、休日にはアーチェリーのショップ巡りをして弓具の製作に時間を費やす生活ぶりだそうだ。
古川選手が打ち立ててきた功績には、アーチェリーに対する一途な姿勢が土台となっていることがよく分かるエピソードだ。
理想の射形をストイックに追及する姿勢
2007年のアーチェリー世界選手権でベスト16に入り、翌年の北京オリンピック出場権を獲得した古川選手。
しかし2度目の五輪は、2回のシュートオフに持ち込む粘りを見せるも、初戦敗退という苦い結果に終わった。
この経験から更に練習を重ねていった古川選手は、今やその射形の美しさが「世界トップクラス」と評されるほどの存在になった。
「射形の美しさとは再現性の高さ」という持論を展開、風を考慮しながらも動作やリズムが一律で自動化されるには練習量しかないとしている。
現在も1日に400本の矢を黙々と射ち続けるのは、無意識でも理想の射形が取れるよう体に染み込ませるためだそうだ。
キャリアのハイライトとなっているロンドン五輪
古川高晴選手にとって3度目の五輪となる2012年ロンドンオリンピック。
予選となるランキングラウンドでは5位という成績でスタートした。
男子団体では初戦に強豪インドと対戦、シュートオフで格上から勝利を挙げた。しかし準々決勝ではアメリカに1点差で敗北、惜しくもメダルには届かず6位という結果に終わった。
そして迎えた8月3日、男子個人で古川選手の快進撃が始まった。
1回戦で香港の李選手、2回戦でウクライナのハラチョフ選手、3回戦でノルウェーのネステン選手を破り準々決勝へ進出すると、マレーシアのモハマド選手に6-2で勝利、ベスト4に勝ち上がる。
続く準決勝ではオランダのファンデルフェン選手と対戦。シュートオフの末6-5で下し、見事決勝へ進出した。
決勝戦では韓国の呉選手に敗れたものの、アーチェリーの日本選手で史上3人目の銀メダリストとなった記念すべき大会だ。
4度目の五輪となったリオ、悔しさから出た話題の発言
2015年に開催された世界選手権で銅メダルを獲得した古川選手は、すでにアーチェリーにおける世界的な選手として認知されていた。
男子団体でリオデジャネイロオリンピックの出場権を失った日本からは、規約により男子個人で出場できる選手は1名だけ。そこで代表となったのが古川選手だ。
ランキングラウンド7位から2大会連続のメダル獲得を狙った古川選手だが、準々決勝で、この大会銅メダリストとなるアメリカのエリソン選手と対戦。しかし風を読み違った事が災いして敗退、惜しくも5位という成績に終わった。
試合後のインタビューでは「負けた時のコメントを用意してなかったので……」と発言し話題になった。
まとめ
日本はアーチェリーにおいて、まだ強豪国とは差のある存在だ。しかし古川高晴選手が果たしてきた功績は世界に認められている。
その背景には人並み外れた練習量、そしてアーチェリーに対する真摯な姿勢があるのだ。
古川選手がこれからも世界で活躍する姿に期待が高まる。