柔道のために中学生で上京
佐賀県生まれの古賀稔彦さんは、小学校1年生の時にお兄さんの影響で柔道に出合った。メキメキと実力をつけると、小学校卒業後には上京して柔道私塾「講道学舎」へ入塾。中学1年生から高校3年生までの6年間、毎朝5時40分からみっちりと練習に打ち込む。
中学2年生の時に全国大会の団体戦で優勝すると、卒業後は世田谷学園高校へ進学。2年時に金鷲旗・インターハイ個人戦・国体と3つの大会を制し、3年時にも全国高校選手権・国際高校柔道選手権・金鷲旗・インターハイ個人戦と4つの大会で優勝。もはや高校レベルでは敵なしという圧倒的な成績だった。
高校卒業後は日本大学体育学部へ進学し、3年生だった1988年にはソウルオリンピックのメンバーに選出。結果は3回戦敗退だったが、日本の期待を背負って戦う重さを味わった。
オリンピックの夢舞台で予想外だったアクシデント
古賀稔彦さんといえば、やはり1992年のバルセロナオリンピックだろう。選考会で結果を残し、代表に選出された古賀さんは順調に調整を済ませて現地入りしたが、吉田秀彦さんとの練習中に足を滑らせ、右足の靭帯を痛めてしまう。現地の練習場では、畳ではなくマットが敷かれていたため起きたケガだった。
診断結果は全治1か月、試合は10日後。最悪のタイミングで起きたアクシデントに、ケガをした古賀稔彦さんはもちろんのこと、吉田秀彦さんまでも精神的に大きなショックを受ける。2人は講堂学舎・世田谷学園で先輩後輩の関係。選手村でも同じ部屋になるなど、公私ともに仲が良かった。一緒に代表に選ばれ、気合を入れて臨んだオリンピックだったのだ。
後輩は金メダルを獲得するも
先に試合があったのは吉田秀彦さんだった。動揺はあったものの、いざ試合が始まると圧倒的な強さを見せ、6試合すべて一本勝ちで金メダルを獲得。しかし、一切笑顔はなかった。自分だけ金メダルを獲ってしまうなんて…。そんな罪悪感からか、選手村に戻っても部屋では気まずく、その日はリビングで寝るほどだった。
そして翌日、古賀稔彦さんの試合の日を迎える。まともな練習は一切できず、道着に袖を通したのもケガをした日以来という状態。それでも痛み止めを6本打ち、畳へと向かう。
いつもの柔道とはほど遠いものの、なんとか3・4回戦を判定勝ちで突破。準決勝の前にはもう1度痛み止めの注射を投入し、ようやくこの日初の一本勝ちを収める。体の状態は上がらずとも、勝負師としての勘は戻ったのか、見事な背負い投げが決まった。
そして決勝、相手はハンガリーのハトシュ。ケガを見透かされてか、相手の掛け逃げ戦法に苦戦を強いられる。古賀さんも小内刈り、一本背負いと攻めの姿勢を見せるが、決め手を欠き勝敗は判定へ。
落ち込む後輩を救った見事な金メダル
判定の瞬間、上がった旗は赤3本。それと同時に高々と右手を上げたのは、日本代表の古賀稔彦さんだった。
古賀さんが畳の上で必死に涙をこらえる一方、応援席で号泣する吉田秀彦さん。自身の金メダルの時には一切笑顔がなかったが、先輩が金メダルを獲ると安堵の表情を見せ、涙をこらえ切れなかった。そして2人は抱き合って、心の底から喜びを分かち合った。
この話には続きがあり、2人は帰国後すぐに精密検査を受けたのだが、なんと吉田秀彦さんは腓骨(足首付近の骨)が折れていたことが判明したのだ。歩くのがやっとという状態は吉田秀彦さんも同じだった。一方の古賀稔彦さんも、ストレスで胃に穴が開いていたそうだ。
引退後は後進の育成に、3人の子供にも期待
その後、1996年のアトランタオリンピックにも出場して見事銀メダルを獲得し、2000年に引退。以降は全日本女子柔道強化コーチを務め、2004年のアテネオリンピックには谷本歩実さんのコーチとして参加した。愛弟子は見事に金メダルを獲得し、2人で抱き合いながら喜びを爆発させていたのが印象的だった。
一方で2003年には神奈川県に「古賀塾」を開塾。礼儀作法を重視し、柔道を通した人間形成を目的とした塾だ。この塾では古賀家の長男の颯人くん、次男の玄暉くん、長女のひよりさんも柔道を始めており、父親に負けず劣らずの柔道を見せている。
古賀さん自身は現在、岡山県の環太平洋大学柔道部の総監督を務め、後進の育成に力を注いでいる。
まとめ
古賀稔彦さんも吉田秀彦さんも、ケガを押しての金メダル。これはもう、お互いを思いやる気持ちが獲らせた金メダルではないだろうか。やはりスポーツ選手は熱い心が大事である、改めてそう思わせてくれる名試合だった。
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