株式会社片上工務店の片上博登代表取締役社長は大学時代、ボートに熱中しました。ローヤー(漕手)からコックス(舵手)に転向し、8キロ減量する日々。食べたいものも口にせず、日本一を目指しながら周囲の大人も巻き込んでチームをまとめました。選手としては関西選手権で優勝、学生コーチとしてはインカレで優勝し、見事に悲願を達成。必死に取り組んだことは現在の仕事にも活きていると言います。
【ゲスト】
株式会社片上工務店
片上博登代表取締役社長
1982年3月10日、愛媛県出身。小学校3年からソフトボールを始め、愛媛県立新居浜西高等学校硬式野球部では3年夏に愛媛大会ベスト8。岡山大学では漕艇部に入部し、コックスとして関西選手権エイト(8人乗り)で優勝した。卒業後に進学した専門学校在学中に岡山大学の学生コーチとして教え子をインカレのフォア(4人乗り)優勝に導く。その後、足場工事一式を請け負う片上工務店に入社し、2018年に代表取締役社長就任。
■高校までは野球に熱中、愛媛大会では松山商に敗退もベスト8
――大学でボートに熱中するまでは野球をされていたそうですね。
片上:父が愛媛の西条高校野球部で投手をしていて、今治西に負けて甲子園に行けなかったこともあって、僕の周りには本気で野球をやっている人が多くて自然と小学校3年の時にソフトボールを始めました。中学ではソフトボールのチームメイトや隣のチームのライバルもいたので野球一択でしたね。軟式野球部に入って、ソフトボールの時と同じキャッチャーをやっていました。
――進学校の新居浜西高校では硬式野球部に入部されました。
片上:当時、新居浜西高校野球部には、父の知り合いで、地元では有名だった坂上仁監督がいたので野球を教わりたかったんです。
――実際に指導を受けてどうでしたか?
片上:それが2年の時に坂上監督は西条高校に転任されたので、実際に指導を受けたのは2年まででした。僕は上級生を抜いてファーストのレギュラーを獲っていたんですが、いかんせん進学校で選手層が薄く、監督が代わって投手が辞めたりしたこともあって、僕はショートとセカンド以外、全てのポジションで試合に出たことがあります。結局どっちつかずになって、2年時はレギュラーでもなくなりました。
――坂上監督が退任した時はショックでしたか?
片上:そうですね。監督が代わった後、ポジションを転々としてレギュラーじゃなくなったので、ずっと坂上監督だったらという思いはありました。
――それだけ良い指導者だったんですね。
片上:先生の言うことを聞いてれば大丈夫みたいな感じでした。学校を転任されてからも、時々教えてもらっていましたからね。投手にコンバートされた後も、どうしたらいいのか聞いたりしていました。
――3年生の最後の夏はどのポジションだったんですか?
片上:レフトでした。僕らは練習試合で両手(10勝)も勝ってないくらいのチームだったんですが、1999年の最後の夏は愛媛大会ベスト8まで行きました。1回戦で八幡浜工、2回戦で帝京第五、3回戦で同じ市内の新居浜東に勝ったんです。それまでコールド負けしかしたことなかったんですが、最後の夏に勝って、当時の新居浜東の監督は小さい頃の私の恩師でしたので「恩を仇で返しやがって」と怒られました(笑)。
準々決勝は松山商に15-18で負けました。コールド負けギリギリから2イニングで15点取って逆転して、再逆転されて負けるという泥仕合でしたね。松山商の監督が2イニングで15点も取られたのは初めてだと言っていたのを覚えてます。結局、松山商も準決勝で負けて、甲子園に行ったのは宇和島東でした。
――高校野球は完全燃焼できたんですか?
片上:燃え尽きたというか、そこまで行けると思ってなかったので、夢みたいな感じでした。負けた時は悔しかったけど、僕らが勝ったらダメだよねみたいな。練習も2、3時間だけでしたから。
■岡山大学漕艇部の学生コーチとして悲願の日本一を達成
――岡山大学に入学された時は野球は選択肢になかったんですか?
片上:高校で夢のような終わり方をしたんで、もういいかなと思ってました。最初は部活に入る気はなくて、サークルに入ろうかなと思ってたんですが、漕艇部に勧誘されて気持ちが変わりました。ボートはカレッジスポーツの割に、競技人口が少なくてすぐインカレに出場できると先輩から聞いていましたし、当時の岡山大学は地方の国立大学が中央の私立大学に勝って全国優勝しようという目標を持っていて、印象が良かったので入部を決めたんです。
――実際に入ってどうでしたか?
片上:メチャしんどかったです。岡山市内を流れる百間川で練習するんですが、みんなが集まれる時間が少ないので、朝5時集合なんです。僕は百間川から10キロ以上離れた所に住んでいたので、4時過ぎに起きて朝の練習が終わったら大学で講義を受けて、夜は陸トレという二部連の毎日です。本当にしんどかったですね。
一番右が岡山大時代の片上博登氏・本人提供
――1年秋にローヤー(漕手)からコックス(舵手)に転向したのはなぜですか?
片上:最初はローヤーとして入部するんですが、どこかでコックスを輩出しないといけないんです。当時、同級生10人の中でも元々野球部だった僕は体力があったんで、1年秋までは新人のトップのクルーでした。
ただ、ボートはモノを運ぶ競技なので体重が軽い方がよく、なおかつ筋力とひと漕ぎの長さも必要なんです。オリンピックに5大会連続出場した日本の第一人者の武田大作選手なんかもそうですが、身長が高くて体脂肪率が低い選手が有利なんです。僕は身長168センチなんで、周りの同級生の方が背も高いし、同じトレーニングをしたら勝てないと思って、コックスに転向しました。その時は「お前、コックスするの?」とみんなにビックリされました。
――コックスとしての苦労はありましたか?
片上:コックスは唯一、ゴール方向を向いて舵を切るのが仕事です。漕がないんで極端な話、おもりなんですよ。実際に体重55キロ以下だとおもりを持つルールがあって、基本的に小さくて軽い人が務めます。僕は筋肉質でベスト体重は63キロだったんで、8キロ減量しないといけませんでした。もう一人コックスをやってた同級生は逆に増量しないといけないタイプで、基本的に歴代のコックスはそういう人が多いです。減量するにしても2、3キロですね。
――食べ盛りの大学生が8キロも減量するのは大変ですよね?
片上:基本的に競技は夏場が多く、知識もなかったんで、ジャンパーを着込んで走り、サウナに行ってました。最後は水を抜いて、食事もせんべいとか軽いものしか食べませんでした。レース前はカロリーメイトの1パックに入っている2本のうち1本だけ食べて、1本は握りつぶして捨ててました。
――2本は多いということですか?
片上:そうです。計算して1カ月くらいかけて減量するんですが、最後の方は1週間で5キロ落としたりしてましたね。期間が長いとメンタル的にしんどいので。今考えたらドMですね(笑)。
――メンタル的にしんどい時はどんな感じですか?
片上:イライラしますよ。練習中は見せないけど、家の棚にあった食べ物につい手が伸びて「明日から減量しよう」みたいなこともありましたね。でも、空腹になったら研ぎ澄まされてる感覚があるんです。やりすぎるとイライラするので、バランスを取りながら減量してました。
左から2番目が片上博登氏・本人提供
――コックスとして最も技量が問われるのはどんな時ですか?
片上:真っすぐ艇を進めないと舵を切る時に減速しますし、蛇行すると距離も長くなって遅くなります。競っていると、体力的に100%では漕ぎ続けられないので、どこかで100%を出して抜き去ろうとか、ここで抜かれると厳しいからここで100%出そうとか、そういった指示をレース中に出します。その駆け引きが重要な役割ですね。
――コックスの楽しさはどんなところにありましたか?
片上:岡山大学は練習メニューやテクニカルな方向性はコックスと学生コーチが決めるスタイルだったんで、最終目標の日本一に向けてどうやって強くしていくかを考えられる環境でした。ちょうど岡山国体の直前だったんで、県予算で全国的に有名なコーチを招聘できたり、こちらが調べて相談すれば県側が動いてくれたりして、周りを巻き込めばどんどん強くなれる感覚がありました。目標に向かって進んでいくのは面白かったし、その経験は今も役立ってますね。
――勝つも負けるもコックス次第ということですね?
片上:ローヤーは漕いでいるのでボートのスピードを出すことに直接関わりますが、コックスは本当に自分が船の推進力に携われているのか常に疑問なんです。自分の存在意義というのをずっと考えていて、そういう意味ではすごくしんどかったけど、だからいろんなことを考え続けて、大人や先輩を巻き込めたり、考えるほどいろんな戦略が打てました。
日本一になるんだという思いでやっていて、タイムが徐々に上がってきたら目標に向かう思いが強くなっていきます。それまでずっと野球をやっていましたが、相手の投げるボールを打つため相対的な評価になることが多い野球とは違い、ボートは同じ環境下でスピードを競うので、1秒、2秒と成長するのが分かるんです。そういうところが魅力というか、麻薬的な感覚はありました。
――レースでの最高成績は?
片上:僕が選手の時は関西選手権のエイト(8人乗り)で優勝したのが最高成績でした。4年から後輩の育成に当たって、卒業後に専門学校に進んで学生コーチとして後輩を指導していたんですが、2004年に後輩がインカレのフォア(4人乗り)で優勝しました。4人のうち2人が僕の教え子で、本当に日本一になった時は震えましたね。決勝のメンバーが早稲田、中央、筑波でしたから。地方の国立大学が中央の私立大学に勝って日本一という悲願が現実になって本当に感動しました。その2人は卒業後も中部電力で選手をしていました。
■今も役立っているコックスとしての経験
――ボートに熱中する学生生活から学んだことは?
片上:野球部時代は自分から動くことがあまりなくて、指導者に教わったことをやるスタンスでした。その方が成長速度は早いし、純粋に強くなれるので悪いとは思いませんが、大学に入ってから、いろんな人を巻き込んで一つのチームを作り上げ、目標に向かって走り続け成し遂げたという経験は、社会に出てからも間違いなく役立っています。
今、建設業の中でも足場工事一式をやっているんですが、5人から6人のチームで仕事をします。僕は8人乗りをやっていたので、チームをまとめる、テンションを上げる、方向性を統一するというのは同じなんです。ひとつのものを作っていくという点では、ボートではそれがスピードで、僕らの会社では足場というだけです。
――大学でボートに出合ったことが人生を変えましたね。
片上:本当にそうだと思います。今の僕の考え方は大学時代に身に付いたものです。
左から2番目の盾を持つのが片上博登氏・本人提供
――一生の友人もできましたか?
片上:卒業して20年くらい経って最近は会うこともあまりないですが、いまだに気を遣わずに笑い合えるのは当時の同級生が多いし、今もどこかでつながってる感覚があります。たまに食事に行ったりするとすぐ昔に戻りますね。
――スポーツをしている若者にメッセージをお願いします。
片上:目標に向かってなりふり構わずやれば自分が面白いし、社会に出た後も役に立つので、そういう思いで何かひとつのことをやっていってほしいです。僕らの職種もスポーツに近い環境なので、建設業の中で足場というと「3K」とかイメージは良くないかも知れませんが、スポーツでずっと頑張ってきた方ならマインドは合うと思います。そういう若者に出会いたいし、建設業の良さを知ってもらいたいですね。