
「世の中のセールスをハッピーにする」をビジョンに掲げ、世の中の営業が輝いている世界を作るべく、営業マネジメント支援と営業パーソン育成支援事業を展開している株式会社インビクタス。創業者の岡哲也代表取締役は中学時代からラグビーに打ち込み、自己犠牲やノーサイドの精神が自然と身に付いたと言います。そしてラガーマン同士の強い絆は今でもビジネスに活きています。
【ゲスト】
株式会社インビクタス
岡哲也代表取締役
1975年6月2日、東京都出身。桐朋中学2年からラグビーを始め、桐朋高校、東京工業大学理学部情報科学科に進学後もラグビーを続ける。1998年に博報堂入社。2003年10月に株式会社プルデンシャル生命保険に転職。営業所長や支社長などを歴任し、マネジメントする支社を3度の世界一に導く。慶応義塾大学、東北大学、中央大学、青山学院大学などで「営業学」の客員講師も務める。2019年日本初の「営業を科学すること」に特化した株式会社インビクタスを創業。 「世の中のセールスをハッピーにする」をビジョンに掲げ、世の中の営業が輝いている世界を作るべく、営業マネジメント支援と営業パーソン育成支援事業を展開している。
■関東大会目前で涙を呑んだ桐朋高時代
――スポーツ歴から教えてください。
岡:小学校時代はひょろひょろのもやしっ子で、勉強とドラクエしかしてませんでした。中1の時に器械体操部に入りましたがつまんないなと思って、団体競技をしたくて2年からラグビー部に入りました。それから28歳まで現役を続けました。
――ラグビーを選んだ理由は?
岡:いじめられっ子というと大げさですが、友達も少なくてヒョロヒョロで病弱だったので、団体スポーツで強くなれそうな競技を選びました。入部後はめちゃくちゃハマって、ラグビーが大好きになりました。
――どの辺が面白かったんですか?
岡:自分よりボールを前に投げられないので、自分の身体を犠牲にして自分より後ろにいる仲間にボールを託して、前に持っていってもらうって不思議じゃないですか。ラグビーは自己犠牲のスポーツなので、仲間意識とか、規律を重んじるとか、そういうところに惹かれました。人にぶち当たってタックルするなんて私生活ではないので、それがメチャクチャ気持ちよかったですね。ポジションは12番か13番(センター)を主にやっていました。
――もやしっ子から変わっていったんですか?
岡:変わっていきました。デカくなったし、強くなったし、自信もつきました。成長期だったのもありますが、中3の時には力持ちになっていましたね。高校からはウエイトトレーニングもしていました。
――いじめていた同級生の態度は変わりました?
岡:公立の小学校から逃げ出して私立中学に行ったのでほとんど会ってないんです。1人だけ小学校の同級生と30歳くらいの時に会って「すごい身体になってるね」と驚かれました。彼とは今も経営者同士で繋がっています。
――中学時代の最高成績は?
岡:都大会決勝で慶応に負けました。

桐朋中時代・本人提供
――高校でもラグビー部に入部されましたね。
岡:中高一貫校だったのですが、高校での結果は都大会ベスト8止まりでした。花園を目指してなかったと言うと嘘になりますが、ほぼ出られませんね。他の高校はスポーツ推薦組がウジャウジャいましたが、こっちは全員受験組だったので難しかったです。
大学受験に備えて3年春の大会を最後に引退するんですが、全国制覇したこともある保善高校に2回戦で当たって、前半20点差で負けていたのに後半に逆転勝ちしたのは嬉しかったですね。その後、ベスト4までいけば関東大会に出られたのですが、準々決勝で都立三鷹高校に負けました。絶対勝てると油断して負けてしまったので悔しかったですね。その時は泣きました。
――その大会を最後に引退したんですね。
岡:みんなで秋までやろうと議論になったんですが、やっぱり受験勉強して大学でやろうよという感じでフェードアウトして終わりました。
――高校からウエイトトレーニングを始めたのは身体を大きくしたかったからですか?
岡:ラグビー選手として優秀でありたいということから、足はそこまで速くなかったのでパワーがあった方がいいという結論に達してウエイトを頑張りました。
――センターなら筋肉はあまりいらない気もしますが?
岡:いえ、ラグビーはどのポジションでもパワーがあった方がいいんです。最近のラグビーのセンターなんてメチャクチャデカいし、太いですよ。
――具体的なトレーニングメニューは?
岡:当時はファンクショナルなトレーニングはなかったので、ベンチプレスとスクワットとデッドリフトなどをやっていました。今ならロープやゴムチューブ、バランスボールとかもありますが、当時はやっていませんでした。強いチームでもなかったですし、ちゃんとしたコーチもいなかったので、自分たちで適当にやってました。
――その頃は自信もついてましたか?
岡:そうですね。高校3年で173センチ、78キロくらいだったかな。今の高校生って100キロとか珍しくないですが、当時はラガーマンとしては普通だったと思います。
■右手でビールを飲んだら「バッファロー」
――大学には現役で進学されたんですか?
岡:そうですね。国立の理系に行きたかったんです。父親も祖父も東大の数学の先生で、学者になれという教育を受けていたのでその流れでなんとなく行きました。東大は受かりそうになかったので、もう1ランク下の東工大を受けてみたら受かりました。
――元々理数系だったんですね?
岡:そうですね。数学は得意でしたね。
――大学でラグビー以外の選択肢はなかったんですか?
岡:なかったです。ラグビーが大好きだったので。いい仲間に囲まれて楽しく過ごしました。

東工大時代(左が岡氏)・本人提供
――高校とレベルが違うと感じませんでしたか?
岡:3部と4部を行ったり来たりするチームだったので、それほど感じませんでした。2年生くらいから試合に出たり出なかったり。なかなか勝てなくて3部で全敗して4部に落ちたり、4部で全勝して入れ替え戦に行っても3部に上がれなかったりでした。
――後悔や、あの時こうしておけばよかったと思うことはありますか?
岡:もうちょっと大学1年、2年の時に真剣に努力しておけばよかったなあと思います。自分のチームじゃないし、どうせ先輩たちの代だし、と思ってサボってしまっていました。練習にも身が入らなかったのは後悔しています。自分がレギュラーになり、自分の代になって初めて分かることもありましたね。
――大学時代も鍛え続けてたんですか?
岡:そうですね。ウエイトトレーニングはずっと続けていたので、チームで一番力持ちでした。
――仲間に恵まれたことを実感したのは?
岡:プルデンシャル生命に転職した時に大学ラグビー部の先輩後輩が話を聞いてくれました。プルデンシャルに入ってくれる人もいました。人を紹介してくれたり、応援してくれたりしましたね。何年経っても昨日まで一緒にいたように酒を飲める仲間がいるというのは最高ですね。ラグビーはマイノリティーなスポーツなので、みんな違う仕事をしていても、ラグビーをやっていたというだけで繋がることができます。
――ラガーマンにしか分からないものがあるんでしょうか?
岡:手前みそですが、他のスポーツよりラグビーをしていた人たちの絆の方が強い気がします。ノーサイドの精神がいいですね。大学時代、定期戦を東北大・大阪大とやっていたのですが、試合が終わった後に一緒に風呂に入ってレセプションで酒を飲むんです。選手は右手でビールを飲まず、左手で飲みます。なぜかと言うと、レセプションで握手する時に手が冷たかったら失礼だと。右手で飲んだら「バッファロー」と言ってイッキさせられるゲームがあるんですよ。
東北大の同期は4回しか会ってないのに、卒業後に商社マンとして東京に出てきた時に、半年くらい2人暮らしをするほど仲良くなりました。今でも大親友です。大阪大の選手もめちゃ仲が良かったです。チームを超えて仲良くなれますね。試合で勝ったり負けたりはありますが、チームを超えて同じスピリットを持てる競技だと思います。
――まさにノーサイドですね。
岡:はい、試合が終わった後に、同じ風呂に入るというのは、サッカーとかでもあり得ないと思います。激しく喧嘩をしてても、その後仲良くなりますね。ビジネス界でラグビーをやっていた人って多くないですか?活躍してる人も多いイメージがあります。
――それはなぜだと思いますか?
岡:どのスポーツも練習は辛いですが、ラグビーは下手したら80分で4キロも痩せるくらい辛いので、精神力と忍耐力がつくからだと思います。1試合終わったら体バキバキで翌朝ベッドから起きられないくらい痛いですし、ぶつけまくってケガもします。フォワードが身体を張って出してくれたボールを我々が命がけでゴールまで持っていくというところは、チームとしてとても繋がっている感じがします。身体を張って仲間を守り、大事なボールを仲間に繋ぎ、トライを取ったらみんなで喜ぶんです。最高のスポーツですよ。
――ラグビーをしているうちに身体に染み込むんでしょうね。
岡:そうですね。あと、人に優しくなれます。スクラムを組んでる選手は、気は優しくて力持ちみたいな人ばっかりですよ。自己犠牲のスポーツであることがビジネスに繋がっているのかもしれません。
それに試合中は自分で判断しないといけないことがメチャクチャ多いんです。コートの中では監督も「あれしろ、これしろ」と言えないので、常に自分で判断しなければいけません。幹となる方針の中で、全員が自己判断でプレーの選択をしています。

東工大時代(後列右から3人目が岡氏)・本人提供
■レベル差を痛感「卓球とテニスくらい違うスポーツ」
――博報堂に就職してからもラグビーを続けたんですね。
岡:そうですね。たまたま入社式で隣に明治大学ラグビー部出身者がいたんです。「お前も大学のラグビーブレザー着てんじゃん」と言われて、ラグビー採用じゃないのに強制的に入部させられました。
――元々入るつもりはなかったんですか?
岡:全くなかったです。ラグビーは大学で終わりと思ってました。結果的にはやってよかったと思っていますが。
――博報堂でもセンターだったんですか?
岡:早慶明のキャプテンとか、レギュラーとか、スポーツ推薦組もたくさんいたのでレギュラーにはなれませんでしたが、たまに人がいない時にはセンターとして試合に出ていました。1部リーグで活躍してた人たちと3部、4部を行き来していた私とでは、卓球とテニスくらい違うスポーツでしたね。今までやっていた自分のラグビーは緩かったなと思い知らされました。ボールのスピードも相手のタックルの硬さも違いました。
――当時、関東社会人1部リーグだった博報堂に入ってからは何を目標にしていたんですか?
岡:最低でも試合で仲間に迷惑をかけないプレーをしたいと思ってました。みんな忙しかったので15人集まらないときもあり、その時に「岡、出ろ!」となるんですが、私が穴だと相手にバレてしまったら狙われてしまいます。誰も「岡のせいで負けた」とは言いませんが、明らかに私のせいで負けた試合が何回かありましたね。
――鍛え直したんですか?
岡:そこから鍛え直して成長しましたね。ラガーマンとして私が一番上手だったのは引退する28歳の時です。プルデンシャル生命保険に転職することになりやめたのですが、それまでは仕事とラグビーを両輪でやっていました。平日2、3日は徹夜で仕事をして土日はラグビー。平日も徹夜の合間に筋トレに行っていました。
――博報堂のチーム練習は土日だけだったんですか?
岡:そうですね、基本は土日だけでした。青山学院大と合同合宿もあったので、一番下手だった私だけ会社を2、3日休んで早めに合同合宿に参加したりもしていました。
――影響を受けた人物はいましたか?
岡:選手として憧れていたのは元木由記雄さんです。直接関わりのあった中では博報堂の同期だった和田圭弘です。今は株式会社オサマジョールの代表をやっている人物ですが、明治大学ラグビー部から博報堂に入って、いつも私の個人練習に付き合ってくれました。彼がキャプテンになった時に私がマネジャー兼選手としてチームを支えました。
――28歳で転職のためにラグビーをやめる時、迷いはなかったんですか?
岡:一流選手でもなかったので迷いはありませんでした。それより仕事でチャレンジしたい気持ちが強かったです。ラグビーで自己成長を感じていたのですが、博報堂の仕事はやらされ感があったので、仕事でも自己成長を感じられるような保険営業で勝負できることにワクワクしていました。
――ラグビーはやり切ったわけですね?
岡:そうですね。みんな大学時代の貯金でやっているようなチームだったので、トップリーグを目指そうというわけでもなかったです。その中で私は下手だったので、周りが下がっていくのと私が上がっていって近付いていくのは楽しかったですね。
――ラグビーを辞める時の体重は?
岡:84キロですね。ベンチプレスは140キロくらい上げていました。でも、ベンチプレスの数字とラグビーの上手さは比例しません。もっとファンクショナルなことが大事です。ただ、筋トレをやっていると「ベンチプレス何キロ上げれるの?」とよく聞かれるので、ある程度大きい数字を言えないとヤバいなと思い頑張っていました(笑)。今もクロスフィットという競技をやってるので、体力は一生懸命つけています。
――クロスフィット?
岡:サーキットトレーニングの競技バージョンのようなものです。世界大会もあり、面白いですよ。
――身体は引き続き鍛えてるんですね。
岡:そうですね。経営者になってから特に身体と心を鍛えておかないと、社員に背中を見せられないですからね。まだ6人、7人の小さい会社なので、社長がトッププレーヤーじゃないとダメだと思っています。前線で身体を張って頑張ってるということは社員が認知してくれてると思います。
■「鍛錬千日、勝負一瞬」ひたむきな努力が実を結ぶ
――当時の仲間との絆は今も役立っていますか?
岡:役立っていますね。起業した時に当時の仲間がお客様を真剣に探して紹介してくれました。人との繋がりは本当にありがたいですね。あとは自然に染み付いてくる自己犠牲の気持ち、きついときにもう一歩仲間のために頑張ろうとするハートが活きています。身体がデカ過ぎてもあんまりいいことはないですが…スーツはすぐに着れなくなってしまいますし(笑)。いいことはデカいから初めて会った人にも一発で覚えてもらえるくらいですね。
――プルデンシャル生命保険ではマネジメントする支社を3度も世界一に導くなど輝かしい実績を残されましたね。
岡:プルデンシャルに転職してから博報堂ラグビー部の仲間が保険に入ってくれました。理由を聞いたら、「岡さんてラグビーはメチャクチャ下手だったけど、メチャクチャ努力家だったから、保険はこの人に任せといたら大丈夫だと思ったからです」と後輩に言われたんです。
――ひたむきな努力を見られていたんですね。
岡:スポーツできちんとした結果を残した人は凄いけど、下手でも好きで一生懸命やっていたら「やっててよかった」と思える人生になると思います。また、1部リーグでレギュラーじゃなかったら意味がないかというと全然違うと思います。私は博報堂ではレギュラーになれなかったけど、そこに向かった過程が自分を強くしてくれました。悔しさが社会に出てもっと努力する起爆剤になったと思います。その過程が自分を大きくしてくれた気がしますね。
私が博報堂時代の体育会の面接官だった時に、早稲田ラグビー部の子に内定を出しました。ですが、その子は(ライバル企業の)電通に行ってしまったんです。博報堂の早稲田の先輩たちは「なんだよ、せっかく特別枠で採ってやったのに」と怒ってたのですが、私は「ちゃんとお前の判断をしてよかった、頑張れ」と応援していました。
その後、プルデンシャルに入った時にその子が「岡さん、保険の話を聞きたいです」と言ってくれました。その時、彼は早稲田のレギュラーではなく「ジュニア」という二軍以下のチームのキャプテンでした。リーダーシップがあってまとめられるけど、試合には使ってもらえない辛い立場です。
その子の2個下でキャプテンとして優勝した別の後輩メンバーがいて、彼も私から保険に入ってました。なぜ私から保険に入ってくれたのか理由を聞いたら「○○先輩は私が4年間、早稲田にいたジュニアのキャプテンの中で最も素晴らしい人間力を持っていました。あれほどの努力をして頑張って仲間を引っ張ったキャプテンを見たことがなかったので、あの人が薦めるものは正しいと思いました。そんな○○先輩が岡さんの保険を薦めていたので岡さんの保険の説明もすんなり入ってきました」と言われたんです。
レギュラーにはなれないけど、自分の与えられたジュニアのキャプテンという立場を全うしようと努力を重ねた結果、信頼を生み、電通での生き方もそうなっていたんですね。スポーツは生き方そのものに関わってる気がします。私もどんな環境でも一生懸命頑張れる人間になれました。結果を残すことは凄いことですし、それも重要だけど、スポーツをひたむきに長く努力を続けていれば「やっててよかった」と思える瞬間が必ず来ます。だから体育会系の人材は重宝されるケースが多いんでしょうね。

東工大時代(中央が岡氏)・本人提供
――ラグビーから学んだことは何でしょうか?
岡:努力がセンスに勝る可能性があるスポーツなので、もちろん運動神経も必要だけど、一生懸命頑張っていたら必ず自分に返ってきます。タックルが決まった瞬間とか、試合に勝った瞬間ですね。その一瞬のために長きにわたって努力する。「鍛錬千日、勝負一瞬」という言葉がありますが、その瞬間のために努力する大切さを学びました。
――ビジネスにも通じますか?
岡:事前準備をするとか、試合中に規律を守るとか、相通じるものは多いです。40分間も規律を守るのはとても大変なんです。例えば、営業の仕事だと現場でアドリブの判断を何度もしないといけません。ベースの型はありますが、起きる事象が変わるからアドリブを監督の指示なくやらないといけません。キックを蹴った方がいいのか、突っ込んだ方がいいのか、誰かに突っ込ませた方がいいのか、パスする相手も何人もいて何パターンもある。その判断をしながら仲間に指示をして動かして、自分の思いを相手に瞬時に伝える。相手が考えていることを分からないといけません。
――社会で必要とされることがいつの間にか身につくわけですね。
岡:そうだと思います。規律が大事とか、自己判断とか、小学校の道徳で教わるような話。それを身体で覚え込ませる。苦しい時に自分が緩んで反則をして点を取られたら負ける。そういうことです。
――ラグビーをしている若者に向けてメッセージをお願いします。
岡:勝っても負けてもレギュラーになれてもなれなくても、自分のベストを尽くして日々過ごすことが大事です。気が付いたらこんな歳とか、気が付いたらあと30回しか練習ないのとか、あっという間に終わりが来てしまいます。毎日の練習も含めてベストを尽くすことが大切です。毎日、今日が最後だと思ってベストを尽くすことに意味があります。













