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【SPAIAインタビュー:第8回】

元広島東洋カープ 大野豊 ~自分で色づけし、自分で幕を引いた悔いなき野球人生

プロ野球

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© 2017 SPAIA

広島東洋カープで22年間投手として活躍し、先発としては沢村賞や最優秀防御率、抑えとしても最優秀救援投手のタイトルを獲得し優勝にも貢献した大野豊さん。

引退後はコーチ業を経て、現在は野球解説者として活躍。ファンに愛されたその実直な人柄は、解説の語り口からもうかがえます。弱い自分と向き合って自身を変え、43歳まで第一線で活躍したその野球人生を振り返っていただきました。

【ゲスト】

元プロ野球選手(広島東洋カープ)

NHK専属プロ野球解説者

大野豊

1955年8月30日生まれ。島根県出雲市出身。高校卒業後、出雲市信用組合へ就職。1977年ドラフト外で広島カープへ入団。 最優秀防御率、最優秀救援投手など多くのタイトルを獲得。80年代黄金期の広島を支え、チームの5回のリーグ優勝と3回の日本一に大きく貢献した。
1998年、43歳で現役を引退。引退後は、広島の一軍投手コーチやオリンピック日本代表の投手コーチを務めた。2013年プレイヤー部門表彰で野球殿堂入りを果たした。

■防御率135.0からのスタート

――大野さんは出雲市信用金庫の軟式野球チームから、テストを受けてのカープ入団という異色のプロ入りだったそうですね。

大野:それも異色ですし、そもそもプロ野球選手というのは、小さい頃から「自分も将来プロ野球選手になるんだ」と夢見てプロに入る人がほぼ100%だと思うんですが、僕はまったくそれがなかったんです。野球は好きでしたが、うちは母子家庭で、母親の働く姿をずっと見ていたので、プロを夢見ることはなく、早く安定した仕事に就いて自立することしか考えていませんでした。だから高校卒業後は地元の島根で就職したんです。

でも社会人3年目に、当時カープのエースだった池谷公二郎さんとコーチの山本一義さんが野球教室で出雲に来られて、一緒に食事をする機会があった。また、高校時代に地元でよく投げ合った青雲(光夫)という投手が阪神にテスト入団したり、刺激になる出来事が重なって、突然、自分の中に「プロに挑戦してみたい」という思いが芽生えたんです。高校時代の監督が、山本一義さんの大学の先輩ということもあって段取りをしていただくことができ、カープの入団テストを受けました。

――そのテストに合格してプロ入りしたんですね。

大野:そうです。ただ、自分は母親の身近にいて面倒を見るために地元に就職したのに、そうしてカープに入ることになった。だから母には自分の思いを伝えて、「必ず成功して、広島に呼ぶから」と言って島根を出ました。

そんな偉そうなことを言ったんですけど、1年目はとんでもないスタートになってしまった。9月4日の阪神戦で初登板したのですが、タイムリーを打たれ、満塁ホームランを打たれ……1アウトしか取れずに5失点。1年目の登板はそれっきりで、防御率は135。それが僕のスタートでした。ちょうどその頃、田舎から応援団が来ていて、「羽ばたけ大野豊」という横断幕をみんなで掲げてくれていたんですが、打たれるたびにそれがどんどん下がっていって(苦笑)。

僕はあまりのショックと絶望感で、球場から寮まで泣きながら帰りました。山本一義さんには電話で、「お前、間違っても自殺するなよ」と言われました。周囲からそう心配されるような雰囲気だったんでしょうね。これでもう二度と一軍のマウンドに上がることはないなと思ったし、チームメイトやファンの方もたぶん「こいつはもうダメだろう」と思われたでしょう。

ただ、母親に電話した時にこう言われたんです。「1回の失敗で諦めなさんな。もう一度頑張りなさい」と。少し時間が経ってから冷静に考えると、3年間まともに練習していないし、その年のキャンプにも参加していない。それでも1年目から一軍に呼ばれたということは、何か自分に良さがあるからだ。技術も体力も精神面も足りないけれど、この先しっかりやれば、またチャンスはもらえる、という気持ちになりました。

――そこから22年間もプロの世界で活躍されることになるんですね。

大野:僕の場合は様々な出会いが大きく自分を変えてくれました。入団2年目には、江夏豊さんとの出会いがありました。 僕はもともと巨人ファンだったのですが、一方で、王貞治さん、長嶋茂雄さんを相手に真っ向勝負する江夏さんのピッチングスタイルにもものすごく憧れていました。社会人時代には、僕が(江夏さんと同じ)背番号28をつけ、キャッチャーが(田淵幸一さんと同じ)22番で、「江夏田淵のバッテリーだ!」と言って投げていたぐらいです。その江夏さんがカープに移籍してこられた。そして当時の古葉竹識監督が、江夏さんに「大野というピッチャーを見てくれないか」と言ってくださったんです。同じ“豊"という名前で、左投げで、母子家庭で育ったという共通点もあってそんなふうに言っていただいたようです。

でも江夏さんは雲の上の人。普通なら、僕のような、防御率135の、どこの馬の骨かわからないようなテスト生をいちいち見ておれるかと断るような状況ですが、それを受け入れてくださったというのは本当に感謝しています。

大野豊

© 2017 SPAIA

 

――江夏さんから教わったことで特に印象に残っているのはどのようなことですか。

大野:キャッチボールをとにかくしっかりやらなきゃダメだということと、ボールをいかに自分の友達にするかということですね。「常にボールを持って、ボールとの接触を感じ、指の感覚を養いなさい」ということをよく言われました。江夏さんはランニング中もボールを持って走ったり、手の中でボールを遊ばせたりしていました。

ボールやバットというものは、置けばただの道具です。それを自分の手で持って、操る中で、自分の気持ちというものが全部ボールに伝わる。そうなるともう別物ではなく、自分の体の一部になる。そういう意味では、その時の精神状態がボールに全部伝わるので、「ピッチャーたるもの、マウンドに上がったらとにかく弱気だとか、逃げるという気持ちを絶対に持つな」と。「打たれても堂々とマウンドにいて、それをボールに伝えろ」ということをよく言われました。

江夏さんとの出会いは非常に自分のプラスになり、成長させてもらったのですが、江夏さんがいなくなった後に抑えをやった3年間は最悪でした。投げる前からやじられましたしね。でもよくよく考えると、僕自身も、江夏さんに近づきたい、江夏さんのようになりたいと、あまりにも江夏さんを追い求めすぎて、それが自分の邪魔をして、苦しかった。

でもある時、それじゃいけないと気づいたんです。江夏さんは江夏さん。自分は自分。大野はどんなピッチャーなのかと考えたら、実績やコントロールは負けているけど、江夏さんより歳は若くて元気がある。スピードボールは負けてない。そういうもので自分に色づけをして、自分を作っていこう。そう考えたらすごく楽になりました。

■プロに入ってから活きた社会人経験

――「打たれても堂々としていろ」というのは、誰でもできることではないですよね。

大野:すぐにできることではないですね。言われていることはわかるし、自分に欠けている弱い部分を指摘されているわけです。

あの当時は、自分の気持ちや考えがすごく嫌だったんです。投げる前から、常に悪い結果を考えてしまっていた。「打たれたらどうしようかな。フォアボール出したらどうしようかな」
でも基本は負けず嫌いだったんでしょう(笑)。やっぱりやられたら、グラウンドでやり返してやろうという気持ちもあったし。

とにかく自分を変えたかった。色々、工夫しました。どうやったらバッターは詰まるのか、泳ぐのか、打つのか。タイミングをどう変えるのか。まっすぐをどう活かすのか。変化球も色々覚えました。バッターを打ち取るためにどうしようかを考えましたね。

そういうなかで、やはり常に(重要なのは)自分の気持ち。まずは勝負する上で、投げるボールのコントロールや相手じゃなくて、自分自身なんです。自分の気持ちを強く持ってコントロールしていくことが先にできないと、勝負できないです。
失敗を前向きに考えていく。そういう習慣を身に付けて、やっぱり自分が変わってきたなと実感を持てるようになりました。

自分を作る。性格は変わらないが、考え方は変えられる。行動も変えられる。ということは、人格も変えられる。そうすると、苦しいんだけど、やりがいがあるというか。これを乗り越えていけば自分の力になる。すぐには結果が出ないけど、それを継続することが大事だと思います。失敗があるから成長した。今から考えると間違いじゃなかったなと思います。

そうやって粘り強く継続することにある程度順応できたのも、社会人の3年間があったからです。いろんな人とのふれあいがある。お金を扱う。ノルマもある。一気に大口では達成できないから、歩いて頭を下げて信用してもらって目標を達成することが身に付いていたんですよね。それがプロでも共通するところがあって、要所要所で活かされました。

――こつこつとやっていく。

大野:それしかないですよ。要は、「認めてもらうためには何をすべきか」なんです。しっかりやるべきことをやれば周りは認めてくれる。社会人でもプロでも同じなんです。

僕の場合、「職業が野球」という感覚だった。高校を卒業しただけだったら、これは仕事なんだ、とは考えられなかったかもしれません。社会人の経験があったから、責任を持って自分に与えられた仕事をどうしていくかを考えましたね。

■“見えない力"に後押しされた忘れられない優勝

――大野さんは現役時代に何度もリーグ優勝を経験されていますが、その中でも特に心に残っている優勝は?

大野:若い時は自分が優勝に貢献したという実感があまりなかったのですが、1991年の最後の優勝は、自分が主力になって優勝できたんだという実感がすごく沸きました。最後、優勝の瞬間もマウンドにいて胴上げ投手になったので、あの瞬間はもう最高でしたね。

それに、あの年は津田(恒実)のこともありましたから。ちょうどその年は、津田と僕とのダブルストッパーということでスタートしたんです。でも4月の巨人戦で彼が、「どうしたんかな?」と思うようなピッチングをして、それを最後にチームを離れました。のちに脳腫瘍だとわかったのですが、そこでチームは、津田のために、津田が元気になるようにみんなで頑張ろう、何とか津田を優勝旅行に連れていってやろうという思いで一つになって戦えた。そういう意味では、津田の存在があの年チームを優勝に導いてくれたとも言えます。

僕自身は正直、不安の中でスタートした年でした。前年まで先発をしていて、久しぶりの抑えになり、津田とのダブルストッパーでやるつもりが、彼がいなくなって1人でやらなきゃいけなくなった。でもそんな中で、何か目に見えない力に後押しされて、自分が思う以上の投球ができた年でした。津田の力が自分を後押ししてくれたのかなと感じましたね。

調子が悪い時もありましたが、そんな時に考えたのは、「津田という投手は、投げたいのに、病気と闘っていて投げられる状態じゃない。自分は投げられるんだから、結果が悪いからって落ち込んでいる場合じゃない。やるしかない」ということ。常に彼の存在が頭にありながら投げ続けた年で、そういう意味でも印象深い優勝でした。

――32歳という若さでこの世を去った津田投手は、大野さんにとってどんな投手でしたか。

大野:普段はひょうきんでね。好青年というか、誰からも好かれるようなニコニコしていた男が、マウンドに上がるとスイッチがパチンと切り替わって、闘争心むき出しの躍動感あるピッチングをする。「弱気は最大の敵」という言葉を座右の銘にしていましたが、実際にその通りでした。僕は年上なんだけど、あのファイトや躍動感など、いろんな意味で見習うべき投手でした。

これでもかというぐらいまっすぐを投げていましたね。キャッチャーのサインに首を振ったら、その時は100%まっすぐなんです。相手バッターもそれをわかっているんですが、それでも打てない。でもあまりにまっすぐばかり投げて打たれると、「お前な、違うボールも投げろ」と言われて、彼も努力して他の球種を覚えたんだけど、結局勝負どころではまっすぐなんですよね(笑)。

大野豊

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■メジャーからの誘いには見向きもせずカープ一筋

――1993年にはメジャーリーグからのオファーがあったそうですね。

大野:ありましたね。即、断りましたけど(笑)。

――悩むこともなく?

大野:なかったです。昔かたぎというか……、やっぱりカープが好きだったし、テスト生として受け入れてもらって、1年目にとんでもない成績だったにも関わらず、そこから自分を成長させてくれたチームなので、そこを出て違うチームに移るという気持ちがまったくなかったんです。

あとは、メジャーのボールが自分の指に合わないというのもありました。若い時にフロリダの教育リーグに行きましたけど、その時にも、あの一回り大きくて滑るボールは自分の指になじまなかった。この短い指にはね(苦笑)。そういうこともあって、自信もあまりなかったし、広島を離れる気がまったくありませんでしたから、話を聞いたその場で断りました。

――もしも今の時代に現役選手だったとしても、メジャーには……。

大野:行かないでしょうね。日本の他チームにも行ってないでしょう。
今だから言えることですが、日本のチームからの誘いもあったんですが、それも先方に会うことなく断りました。悔いはないですけど、ちょっと心残りなのは、その時、僕にどれだけの評価をしてくれていたのかを聞いておけばよかったなということです(笑)。たとえカープの2倍、3倍出すと言われても行かなかったでしょうけどね。

自分はとにかくカープで育ててもらったという気持ちが強くて、カープのユニフォームを最後まで着て、脱ぐ。そこを変えるつもりはまったくなかった。頑固で、思い込んだらとことん変えないというところがあるんです。

――その通りにカープ一筋22年、43歳で引退を決断されました。引退試合での「我が選んだ道に悔いはなし」という言葉は記憶に残る言葉でした。

大野:僕は41歳の時に血栓症が発覚しました。脇の血管がつぶれて指が冷たくなり、顔も洗えないし歯も磨けないという状態でした。血管の詰まりを取る手術をしたらまた投げられるようになって、翌年は9勝して防御率のタイトルを獲らせてもらった。でも43歳の時に再発しました。「あ、また来た」と自分でわかりますから、6月の時点で部長に「もう辞めます」と言ったんです。でも「まだ6月なんだから、ちゃんと治療してもう一度戻ってこい」と言われました。

8月あたりには、見た目にはそこそこいいボールが行くようになった。でも自分としてはまったく納得できなかったんです。僕はボールをリリースする瞬間に、中指と人差し指の指先にボールの縫い目がかかって、ピッと離す感覚をすごく大事にしていたんですが、血が流れないからその感覚がなかった。だからボールが滑っているような感じがして、まったく面白くないし満足もできない。そんな中で、大野はもう辞めるんだと周りの人を納得させるような出来事をどこかで探していたんです。

それが8月4日でした。東京ドームの巨人戦で、新人だった高橋由伸に逆転スリーランを打たれたんです。それまで原辰徳や松井秀喜には、「先輩なめるなよ」と三振を取っていたのに、新人の高橋に、スライダーをバックスクリーンに運ばれた。その打球を見ながら、「あ、これでもう二度と投げることはない。ああ、これで自分は楽になった」と思った。辞められるきっかけになったんです。マウンドを下りる時に、やたらとスッキリしていました。よくぞ自分に、そういうふうに思わせてくれる一打を打ってくれたなという感じですよ。あそこで抑えていたら、「つまらんつまらん」と思いながらまだ投げ続けたかもしれませんから。

9月27日に引退試合をすることになり、引退セレモニーで話す言葉を考えました。その時に、比べちゃいけないんですけど、長嶋茂雄さんが引退する時におっしゃった「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉がぽっと浮かんだんです。それに匹敵はできませんが、自分も何かインパクトの強い言葉がないかなと考えました。

プロなんて夢見ていなかった男が、プロで挑戦したいと思い立ってカープに入り、防御率135というとんでもないスタートを切りながら、22年間やって、自分の意志でユニフォームを脱ぐことができた。そういう思いを言葉にできないかなと考えて出てきたのが、「我が選んだ道に悔いはなし」という言葉でした。

――引退後は投手コーチを務め、現在は野球解説者としてご活躍ですが、今後の夢ややりたいことはありますか。

大野:やはり野球をやってきたから今があるわけなので、年齢関係なく、現場に戻って、何らかの形でチームのプラスになるようなことを指導者としてやりたいという思いはあります。

カープでは二度コーチをやって、カープはもういいかな、これからは他のチームでもやってみようかなという気持ちになったことがありました。でも、いざとなったらやっぱりダメなんですよね(苦笑)。実際にそういう話がくると、避けてしまう。現場に戻りたい気持ちはあるんですけどね……。カープであれば可能性はありますが、たぶんカープからの話はもうないでしょう。時代の流れがありますから。だから、今の(解説者の)仕事を続けていこうかなと(笑)。

それに加えて、いろいろな地域に行って子供たちとキャッチボールをしたり、話をしたりして触れ合って、野球の楽しさを伝えることができればいいなと思います。

大野豊

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(取材・文: 米虫紀子 / 写真:近藤宏樹)

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