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【SPAIAインタビュー:第6回】

元ラグビー日本代表 吉田義人 ~ラグビーを通してリーダーシップや創造力を育みたい

ラグビー

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© 2017 SPAIA

19歳でラグビー日本代表入りし、世界選抜にも3度選出された名プレーヤーで、日本人初のプロラグビー選手としてフランス1部リーグでプレーした開拓者でもある吉田義人さん。

社会人時代は伊勢丹ラグビー部でキャプテンとして活躍。指導者を務めた横河電機では社業でも最年少部長に昇格。さらに、筑波大学大学院スポーツ教育修士号を取得するなど、才能とバイタリティにあふれた人物です。
その吉田さんに現役時代の様々な決断や、現在力を入れている子供の育成プロジェクトについて話を伺いました。

【ゲスト】

元ラグビー日本代表

サムライセブン監督

吉田義人

1969年2月16日生まれ。秋田県男鹿市出身。秋田工業高校、明治大学のラグビー部で主将として活躍後、19歳で日本代表入り。ラグビー世界選抜のメンバーとして3度選出される。大学卒業後伊勢丹へ入社。仕事とラグビーを続けながら筑波大学大学院でスポーツ教育修士号を取得。伊勢丹のリーグ撤退をきっかけに、フランス1部リーグにて日本人初のプロラグビー選手としてプレーする。

現役引退後、横河電機ラグビー部ヘッドコーチとして全勝優勝でトップリーグに昇格。その後明治大学ラグビー部監督に就任し14年ぶりに対抗戦を制覇。2013年日本初の7人制ラグビーチーム・サムライセブンを設立、監督を務める。

■子供の頃は「ドラえもんのようなガキ大将」

――まず今のお仕事について聞かせていただけますか?

吉田:昨年11月11日に「一般社団法人日本スポーツ教育アカデミー」を立ち上げ、その理事長として活動しています。これは0歳から小学生までの子供たちを、ラグビーアカデミーや、ラグビーリトミックを通じて育成する活動です。ラグビーリトミックとは、音楽に合わせてラグビーボールをパスしたりキックしたりする幼児の知性と感性を育むプログラム。リトミックは多方面で行われていますが、ラグビーボールを使ったものはおそらく世界初だと思います。教育者の皆さんと一緒にプログラムを開発しました。

イギリスではパブリックスクールの上流階級の子供たちがラグビーを通じて教育されてきたことからもわかるように、スポーツの中でもラグビーは、極めて教育的な要素が強いんです。ゴルフにしてもそうですが、イギリス発祥のスポーツは、ジェントルマンシップスポーツであり、マナーや礼儀を重んじます。日本では、慶應義塾大学がラグビーを取り入れたのが最初ですが、他の東京の有名私立小学校の多くがラグビーをカリキュラムに組み入れて実施しています。

――吉田さんご自身はどのようなお子さんだったのですか?

吉田:僕は秋田の男鹿半島で生まれ育って、小さい頃からドラえもんのようなガキ大将でした。

――ドラえもんのようなガキ大将?ジャイアンではなくて?

吉田:はい。ガキ大将と言うと、どうしてもジャイアンのイメージが強いと思いますが、そうではなくて、弱い者いじめは一切しない。発想力、創造力が豊かで、すぐ誰とでも仲良くなり、学校が終わると一緒に海や山でいろんな遊びをしていました。

――ラグビーと出会ったのは?

吉田:一緒に遊んでいる友達にラグビースクールに入った仲間がいて、彼がある日ラグビーボールを持ってきて、「これで遊ぼう」と提案してきたんです。初めて見るボールだったので、「面白そうだな。じゃあ、やってみよう」と。雪の積もった田んぼに出て、簡単なルールを教えてもらってやり始めると、もう夢中になって、日が暮れるまで熱中していました。そして家に帰るなり、母に「ラグビースクールに入りたい!」と伝えたんですよね。9歳の時でした。

ただ、中学にはラグビー部がなかったので、野球部に入りました。小さい頃から野球も大好きだったので。父が巨人ファンで、僕も応援するようになりました。秋田では巨人戦しか放送されませんでしたからね。当時、スポーツができる子供たちの多くは、「将来の夢はプロ野球選手」でした。僕も友達より運動神経がよかったのでプロ野球に入りたい、まずは甲子園を目指そう、と野球部に入りました。ところが1年の時に肘を壊してしまったんです。

そんな時、小学校で一緒にラグビーをやっていた仲間から、「先生にお願いしてラグビー部を作ってもらったから、もう一回オレたちとラグビーやろうぜ」と誘われました。ラグビーはボールを持って走るのがメインの競技。肘には負担がかからない。それ以来、ずっとラグビー一筋ですね。

吉田義人

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■「100通りの仕事」に惹かれて伊勢丹へ

――秋田工業高校、明治大学ではともに全国優勝を果たし、大学卒業後、伊勢丹に就職されました。

吉田:当時は社会人リーグ(その後トップリーグに移行)というものがあって、一部上場企業はほぼラグビーチームを持っていました。そんな中、僕が大学2年の時、最初にオファーをくれたのが伊勢丹でした。その頃はまだ就職のことなんて全然考えていなかったんですが、3年に上がるとさまざまな強豪からオファーをもらいました。企業チームといえど、選手は社業よりラグビーが優先で、練習に支障をきたさないような部署に配属されていました。それがどうも、自分としては疑問に思うものがあったんです。ラグビーはプロではなく、アマチュアスポーツでしたから、社員として、しっかりと仕事をすることで収入を得て、ラグビーは余暇の時間を使い、自らの権利としてやるものではないのかと感じたんです。

とはいえ大学まではラグビーに熱中していましたから、どこに就職するのか考えた時に、どういう職業が向いているのか見いだせずにいました。その想いを当時の伊勢丹の取締役の方にぶつけると、「吉田君、悩んでいるんだったら、伊勢丹は百貨店だよ。百貨店は100通りの仕事に携われるぞ」と言われたんです。この言葉を聞いて、「伊勢丹にしよう!」と決断しました。
伊勢丹では、朝から晩まで他の従業員の方と同じ時間、仕事をして、終業後に夜9時過ぎから練習する生活でした。僕が伊勢丹に就職を決めたことは、多くのラグビー関係者から驚かれました。当時の伊勢丹は、いわゆる3部リーグの下位を争っていて、専用グラウンドもないようなチームでしたからね(苦笑)。

――そこから、日本人初のプロ選手としてフランス1部リーグに挑戦することになったのはどのような経緯だったのでしょうか?

吉田:入社9年目に、伊勢丹がラグビーからの撤退を決めたんです。バブルが崩壊した後、企業スポーツは次々と廃部や休部に追いやられていました。百貨店業界も売り上げが減少し、伊勢丹も非常に厳しい状況を余儀なくされていました。
それまで、僕は仕事とラグビーの両輪で走っていました。会社の仕事も楽しく、花形と言われた婦人服第一部に配属され、昇格試験も受けてマネージャーにもなっていました。日々の業務が多忙なあまり、自分はなぜ伊勢丹に入ってきたのかということを考える暇さえありませんでした。でも、ラグビーからの撤退が決まり、はたと立ち止まる時間ができました。自分の人生を見つめ直すいいきっかけになりました。

自分はこれまで両輪で走ってきましたが、社業だけの片輪になる。片輪でどこまで走れるのかと考えると難しい。これからは自分を育ててもらったスポーツ界に貢献しようと決意したんです。
日本のスポーツ界は、プロの世界とアマチュアの世界に分かれています。アマチュアの人間はプロのスポーツ選手たちと対等の立場にいるのかと考えた時、プロは生活のすべてをかけて戦う存在です。「よし、スポーツ界に貢献するためにはオレもプロの世界に身を置くべきだ」と思い立ちました。ただ、日本にはプロリーグがない。そこで海外で選んだ先がフランスだったんです。

■フランスラグビーは子供の育成にも参考に

――なぜフランスだったのでしょうか?

吉田:秋田の田舎で育った僕にとって、海外のラグビーを見る機会は年に1回しかありませんでした。それがNHKの放送していた5ヶ国対抗ラグビーでした。そこで見たフランスのラグビーが衝撃的だったんです。

吉田義人

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当時のラグビーのスタイルは、キックを多用する戦術でした。ボールが密集から出たらキックをして、追いかけていくラグビーです。でもフランスのラグビーは、“シャンパンラグビー"と評されていました。シャンパンの泡のようにフォロワーが湧き出てきて、パスをつないで、トライを狙うスタイルでした。

僕はもともと、ラグビーはボールを持って走るのが醍醐味と考えていたのに、当時の日本のラグビースタイルは違っていました。だけどフランスはパスを次々と展開するラグビーをやっていました。だから、大学でも社会人でも、自分がキャプテンになって志向していたのがフランスラグビーだったんです。
フランスは芸術の国と言われますが、僕はラグビーも芸術だと思っているんです。真っ白なキャンバスに、今日のゲームの絵を描いていく。選手たちが自律して、個々の判断で、それぞれの色を出して、ひとつの絵を描いていくものなんです。

ラグビーにはもともと監督が存在しませんでした。レフリーもいませんでした。お互いのチームのキャプテンが、「今のは反則だよね」なんて話し合いながらゲームをしていたんです。“キャプテンシー"がラグビーでは重んじられます。ラグビーが、リーダーシップを育てるスポーツであるというゆえんですね。
その中でもフランスは、芸術の国であり、個人主義の国でもあり、自己主張をすることが当たり前です。常に個々が判断しなくてはなりません。それが自分のラグビー哲学に合致しました。とても居心地が良かったですね。日本のラグビーはどちらかというと型を大切にする傾向がありました。こういう戦術をやるから、こういう動きをしなさい、といった具合です。今では海外から監督やコーチが来て、実戦に即した練習が増えましたが、昔は型を作る練習ばかりでした。対してフランスのラグビーは創造力をもって、自ら考えてプレーしていくスタイルでした。

 

――そうしたフランスラグビーの要素は、現在行われている子供たちの育成にも取り入れられているのでしょうか?

吉田:ものすごく大事にしています。子供たちには常に考えて、どんどんチャレンジしてみなさいと伝えています。また保護者の方にはラグビーだけでなく、様々なスポーツに関わらせることを薦めています。

僕が筑波大学の大学院で書いた修士論文のテーマが、「ゴールデンエイジ」でした。子供たちの成長には、骨、筋肉、神経系という3つの柱があって、神経系が一番敏感になり、発達する時期が9〜12歳。それをゴールデンエイジと言います。ボールを投げる、蹴る、キャッチする、打つといった動作をスッと身につけられるのがその時期なんです。そして4歳くらいからプレゴールデンエイジが始まります。ですから、その頃にいろんなスポーツをバランスよくやらせてあげると発育に効果的なんです。

僕の息子は今8歳ですが、いろいろなスポーツをやらせています。4歳からラグビースクールに行き、今は野球、サッカー、あとは、妻が音楽家なのでピアノも習っています。やはり日本スポーツ教育アカデミーを立ち上げて子供たちを育てる上で、自分の息子に実践させていないと、説得力がないですからね。

――今後、吉田さんが目指すところというのは?

吉田:2019年にはラグビーのワールドカップが日本で初開催され、2020年には東京オリンピック・パラリンピックと、国際大会が続けて開催されます。ラグビーファミリーも、オリンピックファミリーもこぞって日本にやって来る。その時に、日本の子供たちには物怖じすることなく、ぜひ友達を作ってもらいたい。積極的に「Welcome to Japan!」と外国人に言える子供を育てたいんです。
そして2020年以降には、欧米では当たり前になっている総合型スポーツクラブの普及に力を尽くしたい。スポーツの観点から地域が発展し、豊かな生活に寄与できればと考えています。

吉田義人

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(取材・文: 米虫紀子 / 写真:近藤宏樹)

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