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1995年にセレッソ大阪が初めてJ1に昇格した時のメンバーで、その後のチームの躍進を支えた“ミスターセレッソ"森島寛晃さん。
日本代表でも活躍し、64試合に出場、12得点を挙げました。中でも、セレッソの本拠地・長居で挙げた2002年日韓W杯でのゴールはファンの心に深く刻まれていることでしょう。プレーだけでなく、その親しみやすい人柄も愛された選手でした。
2008年に現役を引退し、現在はチームの強化に携わる森島さんに、現役時代の思い出や現在の仕事について“セレッソ愛"たっぷりに語っていただきました。
【ゲスト】
元プロサッカー選手(セレッソ大阪)
大阪サッカークラブ株式会社 チーム統括部 フットボールオペレーショングループ 部長
森島寛晃氏
大河FC、東海大第一高校を経て、1991年ヤンマー入団。1994年ヤンマーがセレッソ大阪と改称後もチーム主力として活躍。1995年~2002年は日本代表にも選出され、1998年・2002年のワールドカップに出場。2008年に現役を引退。
現役時代に背負った背番号8は代々セレッソのエースナンバーとして引き継がれている。
■強化に携わる難しさを痛感
――現在は「チーム統括部フットボールオペレーショングループ部長」という肩書きですが、どのようなお仕事なのでしょうか?
森島:引退後、一昨年まではチームのアンバサダーという形で子供たちのイベントに行ったり、メディアに出させてもらったり、セレッソを発信していく立場だったのですが、昨シーズンからは、選手、スタッフを含めたチーム作りに携わる統括部に配属になりました。
昨季は選手のスカウトなどをやっていましたが、今季はよりチームに近いところで、チーム全体がうまくいくようにコントロールするという役割なのですが、まだまだ自分は力になれていません。一昨年までは外からあーだこーだと言っていましたが、自分が中に入ると、非常に難しいなと感じています(苦笑)。
――どのようなところが特に難しいと感じられますか?
森島:選手それぞれいろいろな思いがありますし、監督はチームをもっとよくするために要望も持っていますし、そのあたりをうまくコントロールできるようになっていかないといけない。今年は監督が変わって新たなスタートを切る中で、生活リズムや練習のやり方などいろいろなところに変化があり、うまくいくこともあればうまくいかないこともある。
スポーツならどこにでもあることですが、そんな中でも一つの目標に向かって、チームが一つになっていかなきゃいけない。とにかく雰囲気作りや、試合や練習に向けて選手たちがいい準備をしていけるようにということを心がけています。
――雰囲気作りのために意識されていることはどのようなことでしょうか?
森島:僕はチームに帯同して練習も見ているので、練習中や終わった後の選手の顔色を見ながら、状況を読み取ったり、監督の話を聞いたり。その上で特に、状態のよくない選手や試合に出られない選手に対して、まだまだチャンスはあるぞとか、もうちょっと頑張らないといけないとか、もう少しこうしたほうがいいんじゃない?というワンポイントなど、ちょこちょこ声をかけるようにはしています。
そういうことを1年間かけてやることで、選手たちにいい形で伝わっていけばと思うんですが、まあ、難しいですね、チーム作りというのは(苦笑)。ただ、これまでより現場に近いポジションでやれる面白さもあります。
自分はね、やっぱり『セレッソで優勝したい』という思いでここにいますから。
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■記憶に残るのは、いい思い出よりも悔しい思い出
――現役時代のことを振り返っていただきたいのですが、森島さんにとって一番記憶に残っている試合はどの試合でしょうか?
森島:こう聞かれた時に、優勝した試合を思い出のシーンとして出したいんですけど、一度も優勝していないんですよね(笑)。僕らは「勝てば優勝」という試合をリーグ戦で2回経験してるんです。それが、どうしても忘れられない。
特に2000年。初優勝のチャンスでした。その前の試合で、アウェイで横浜マリノスに勝ったんです。マリノスはそこで勝てば優勝だったんですが、逆に僕らが勝って、逆王手をかけて最後の試合に臨みました。しかも相手は最下位のチームだったから、もうこれは勝てたなと……。
マリノス戦を終えてから1週間、しっかり準備して、当日ここ長居に来たらスタンドはピンク一色の超満員だったんですよ。もうテンションが上がって、「やるぞ!」となって、ピッチに出ていく瞬間、ガッチガチでした。その、入場した瞬間がね、忘れられないですね。
で、試合に入るとやっぱりドタバタしてしまって。先制点を取られて、その後、追いついたんですけど、最後に劇的な負け方をして“長居の悲劇"になってしまった。ちょっと雨模様でね……。試合で久々に泣きました。雨と一緒に涙が出た。雨より激しく降ってましたね。なかなか、あんなに悔しい思いっていうのはないですね。
2005年にも同じようなチャンスがあって、その時も最後の最後に追いつかれて勝てなかったんですけど、あのゲームはまだ戦えていたと思うんです。戦った結果、勝てなかった。でも00年は、もっとできることがたくさんあったなと。だから悔しくて。
セレッソではリーグ戦で2回、カップ戦で3回、優勝のチャンスがあったんですが、5回のうち4回は、僕が点を取っていたら優勝できたんですよ。これは僕以外のチーム関係者もみんな発信していることですから、間違いないです。
――だからこそずっと今も「なんとかセレッソを優勝させたい」という思いを持ち続けているのでしょうか?
森島:そうです。持ち続けてきたから、これだけ長くセレッソにいるんでしょうね。「あいつがおらんようになったら優勝した」って言われたくないから、おるんかな(笑)。
引退してから、「優勝がかかった試合には来ないでくれ」って言われたこともあるんですよ。だから誰にも言わずに電車で行って、こっそり試合を見ていたら、負けて、優勝できなかったんです。
「うわー、どうしようかな。挨拶いこうかな」と迷いながら、下のロッカールームに行ったら、スタッフや選手たちがこっちを見た瞬間に、「来てたからやー!」ってみんなに指をさされました(苦笑)。
帰りの電車はセレッソのサポーターだらけで、サポーターにまで「あー」って言われましたからね。そんな、ちょっと疫病神的なところもあったんです(苦笑)。
でもね、それはもう大丈夫です。僕が行ってもACL出場を決めたりとか、そういう大事な試合でもしっかり結果が出るようになりましたから。今は、必ず優勝してくれる、そういう勝負強さを持っている選手たちがいっぱいいるんです。
だからもう本当に、J1で優勝した時には、誰よりも前に行ってビールかけがしたい(笑)。それが憧れですね。
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――逆にいい思い出という意味では、2002年W杯の大阪長居スタジアムでのゴールは印象に残っているのでは?
森島:それは忘れられないですよね。その前に僕は1998年のフランスW杯にも出させてもらったんですけど、出場時間が10分ぐらいでした。もっと出たかったという思いや、強引にシュートに行くとか、もっと思い切ってやればよかったという思いなど、いろんなものがあったんです。その悔しさがあったから、2002年の時の自分には、「絶対に1分1秒でも何かやってやろう」という気持ちが常にありました。
しかも、3戦目のチュニジア戦が大阪のこの長居という、自分たちセレッソのホームスタジアムであるということで、出番があるんじゃないかと思っていました。それくらいはトルシエも空気を読んでくれるんじゃないかと(笑)。そう思って準備もすごくしていました。まあただ後半の頭から行くとは思わなかったですけどね。「お、トルシエ、ちょっと早いな」と思って(笑)。
ホームということで、自分自身すごくプレーしやすかった。雰囲気に後押しをしてもらえたから、あのシュートをね、ああやって思い切り蹴って入れることができたと思います。自分の中ではすごいロングシュートが決まったと思っていたんですけど、あとで見たらまあまあ近かったんですけどね(笑)。
いろんなゴールがありますけど、あの時の興奮っていうのは特別で、その後どうやって喜んだのか覚えていないぐらいでした。それぐらい貴重で、その後の自分のサッカー人生の自信にもなりました。
ただ、その日2点目を中田英寿が取ったんですよ。スターが点取ったから、次の日の新聞一面は取られちゃいましたけどね(笑)。
■選手の海外経験もチームの力にして前に進む
――森島さんがセレッソで背負っていた背番号8番は、その後、香川真司選手(ドイツ1部・ドルトムント)、清武弘嗣選手、柿谷曜一朗選手と、代表や海外リーグで活躍する選手たちに受け継がれていきました。
森島:僕自身は所属が長かったというだけで、香川から始まって、清武、柿谷と、その後に8番をつけた選手たちが世界で活躍してくれて、セレッソの8番の価値を上げてくれたので、どっちかというと初代はそこに乗っかっちゃっただけという感じです(笑)。
――そんなことはないでしょう(笑)。
森島:いやいや、僕は世界を知らないですからね。あ、新世界は知ってますよ(笑)。あそこは行ったことあります。
――(笑)。それにしてもセレッソは次々に代表選手を輩出し、その選手が海外リーグに行っても、また新たなスターが出てきます。
森島:育成の部分では他のチームに負けない、という思いを持って活動してきた成果だと思います。環境面もそうですし、普段の生活からいろいろな部分で教育をしてやってきたことが今につながっているのかなと。
柿谷や山口蛍、南野拓実といった、ジュニアやユースから上がってきた選手たちがトップチームで活躍して、代表に入った姿を、今の下の選手たちも見ていますから、それがまた刺激になっていると思います。まあこれからですけどね。本当にこれからも続けて代表に入るような選手がどんどん出てくるかどうかが大事です。
下のカテゴリーはたくさん日本一になっていますし、女子チーム(セレッソ大阪堺レディース)も日本一になりました。あとはトップチームです。トップチームの優勝がまだない。育成の段階で日本一になってきた選手たちがトップチームで活躍して、優勝、というところまでつなげていかなきゃいけないと思っています。
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――今年は、その優勝のための大きな戦力である清武選手が復帰したり、海外を経験した上でまたセレッソに戻ってこられる選手が多い。またここでやりたいと思うチームなのでしょうね。
森島:海外に行っても、休みになったらこっちの練習に帰ってきたりする選手もいますからね。自分たちの家というか、居心地のいい場所なのかなという感じはしますね。
香川なんかも、あれだけの選手だから付き人と一緒に来るのかなと思ったら、1人でタクシーに乗ってきましたからね。靴だけ持って、ジャージで「こんちわー!」って(笑)。近くに来た時には試合をスッと見にきたり。やっぱりこのチームがその後どうなっているのかというのはいつも気にしてくれているみたいです。
乾貴士(スペイン1部・エイバル)もよく帰ってきてますからね。たまにここで練習しているのを見て、もしかしたらまだうちの選手なんじゃないかなと思うこともありますよ。何人かの選手は自分たちのシートを持っているんですが、“乾シート"をずっと買ってくれていますし。選手たちがチームへの思いを持ってくれているのと同時に、このチームはサポーターも、セレッソ思いの暖かい人が多いので、そういうことも影響していると思います。
一度、外のチームを見て、もう一度セレッソに戻ってきた柿谷や清武、山口、杉本健勇といった選手たちはいろいろなものを見たり経験してきているので、下から上がってきた選手たちがそういうものを見て、一緒にプレーして成長して、みんなが競争しながらチームが活性化していくことが理想ですね。
(取材・文: 米虫紀子 / 写真:近藤宏樹)