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オリンピックウエイトリフティングの名場面を振り返る!

2016 12/1 16:42
ウエイトリフティング
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出典 http://mainichi.jp/

力自慢を競うウエイトリフティング(重量挙げ)。第1回のオリンピックから正式種目にある格式高い種目です。これまで各オリンピック大会において数々の名場面が生まれてきましたが、その中でも特に多くの人の心に残っているであろう5つの名場面を厳選して紹介します。

リオデジャネイロオリンピック、三宅宏実選手の銅メダル

まだ記憶に新しい、三宅宏実選手のリオデジャネイロオリンピックでの銅メダル。30歳という年齢に加え、直前に腰痛を悪化させ痛み止めを打っての試技でした。スナッチは81kg、1回目、2回目と力なく失敗。スナッチで3回失敗すればクリーン&ジャークには進めません。3回目の試技、体を小刻みに震わせながら、全身の力で持ち上げました。クリーン&ジャークは、1本目に105kgを成功、2本目は失敗し、3本目はメダルをかけて107kgに挑戦。力強く持ち上げると宏実スマイル。
バーベルを降ろした後、バーベルをハグして、優しくなでる様子は印象深いです。2大会連続メダルの偉業を達成しました。

リオデジャネイロオリンピックのキリバス出身選手のダンス

同じリオデジャネイロオリンピックで、優勝したわけでも、メダリストになったわけでもなく、話題になった選手がいました。キリバスのデビッド・カトアタウ選手です。カトアタウ選手は男子105kgに出場。試技を成功しても失敗してもコミカルなダンスを踊り会場を沸かせました。カトアタウ選手がダンスを踊る理由は、母国キリバスが海面上昇によって水没してしまうことを世界にアピールするためでした。コミカルでユーモラスなダンスは悲しいダンスなのでした。

ロンドンオリンピック三宅宏実選手銀メダル

ロンドンオリンピックでの三宅宏実選手の銀メダルも印象深いです。2004年のアテネオリンピック48kg級で9位に入賞し、2008年北京オリンピックは減量によって力を出せず6位入賞にとどまりました。北京オリンピック以降、減量のリスクを減らすために階級を53kg級に上げていましたが、三宅選手は賭けに出ます。減量方方法を変え、直前で48kgに戻しました。結果は日本新記録の連発で銀メダル。この銀メダル、ウエイトリフティングにおける日本女子の初のメダルでした。さらに父娘でオリンピックメダリストと素晴らしい偉業を達成し、過去2大会の悔しさを晴らしました。

ソウルオリンピック、ナイマ・スレイマノグル選手の金メダル

ナイマ・スレイマノグル選手は、ブルガリア出身でトルコ系移民の英雄です。16歳で世界記録を出すと、オリンピックのメダルが期待されました。しかし、当時冷戦状態だったアメリカとソ連の関係において、ソ連側に支配されていたブルガリアは1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコット。オリンピックメダルの夢は果たせませんでした。1986年スレイマノグル選手は、ワールドカップで滞在していたオーストラリアでトルコに亡命を果たします。
その後、1988年のソウルオリンピックにおいて、オリンピック規約でブルガリアとトルコどちらの国から出場するか問題になるも、トルコがブルガリアに100万ドルを支払うことで解決。2位にトータル30kgをつける大差で圧勝しました。スレイマノグル選手はその後オリンピック3連覇を果たしています。

1964年東京オリンピック三宅義信選手の金メダル

三宅宏実選手のお父さんの三宅義行選手も、1968年のメキシコシティオリンピック男子フェザー級で銅メダルを獲得した凄い選手ですが、そのお兄さん、三宅宏実選手にとっての伯父さんにあたる三宅義信選手はもっとすごい選手でした。法政大学在学中に出場した、1960年のローマオリンピックで銀メダル。その後自衛隊に入り、開催国の代表として1964年の東京オリンピックでは、金メダル獲得が至上命題になりました。三宅義信選手は当時の月給が1万2千円という世の中で、8万円もするカメラを購入し、フォームを徹底的に見直しました。
その甲斐あって、東京オリンピックで金メダルを獲得しました。これは、東京オリンピック金メダル1号でした。その後、続く1968年のメキシコシティオリンピックで連覇と兄弟でメダル獲得という偉業を達成しています。

まとめ

オリンピックにおけるウエイトリフティングの名場面を振り返ってみましたが、いかがだったでしょうか?オリンピックの名場面を振り返ると、その背後には数々のドラマがあることがわかります。そうした人間ドラマも含めて、ウエイトリフティングに注目していきたいです。

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