日本女子バレーの歴史をつくった中田久美さんとは?
中田久美さんのバレー人生は、日本女子バレーの歴史そのものといっても過言ではないだろう。
2016年現在51歳の中田久美さんは、プレミアリーグのトップチームである久光製薬スプリングスの総監督であると同時に、バレーボール全日本女子の監督も務めている。1982年に生沼スミエさんが選ばれたのに続いて、2人目の女性監督となった。女子の代表チームの監督は男性であることがほとんど。女性がナショナルチームの監督になるのは、きわめて異例のことなのだ。
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バレーボールに興味にある人なら、「中田久美」という名前を知らない人はいないはずだ。 リーグでの活躍はもちろん、日本代表での存在感や指導者としての実績も頭一つ抜けている中田久美さん。 その偉大な功績をまとめた。
中田久美さんのバレー人生は、日本女子バレーの歴史そのものといっても過言ではないだろう。
2016年現在51歳の中田久美さんは、プレミアリーグのトップチームである久光製薬スプリングスの総監督であると同時に、バレーボール全日本女子の監督も務めている。1982年に生沼スミエさんが選ばれたのに続いて、2人目の女性監督となった。女子の代表チームの監督は男性であることがほとんど。女性がナショナルチームの監督になるのは、きわめて異例のことなのだ。
日本女子代表の監督に加えて、コメンテーターやタレントとしても活躍している中田久美さん。なぜ彼女はそのような人望を得ているのだろうか。
中田久美さんのキャリアは独特だ。中学入学と同時にバレーを始めたという中田さん。通例なら小学生から始めるのがほとんどなので、まずこの時点で異例だ。しかも、学校のクラブではなく、日本女子バレーの黄金期を支えた山田重雄監督の率いる「LAエンジェルス」に入団して英才教育を受けたのだ。その結果、なんと15歳(中学3年生)で日本代表に選ばれることに。
中学卒業後は進学せず、日本リーグでバレーボールの本格的なキャリアをスタートさせる。現在は中卒のプロスポーツ選手はよく見られるが、当時では前代未聞のことだった。
中学1年生でゼロから競技を始め、3年生で日本代表選手に。どんなスポーツであっても、普通まずありえないことだ。中田久美さんは、まさに規格外の才能を持っていたと言える。
また、山田監督との出会いによって才能を開花させたことは運命という以外にない。社会人リーグでバレー漬けの日々をスタートさせた中田さんは、2年目にセンターポジションからセッターに転向するが、これが大ヒットする。
天性のバレーセンスを遺憾なく発揮した中田選手の活躍で、チームは無敗でリーグ優勝を決め、中田選手も見事新人賞を獲得。鮮烈なデビューを果たす。
社会人リーグでの中田久美選手の功績に異論を挟む余地はない。史上最多となる4度のMVP受賞にも、それは表れている。また、日本代表選手としても縦横無尽の活躍ぶりを示した。
1983年、18歳で代表チームのセッターとして不動のスタメンに。世界選手権で、当時無敵と言われた世界王者中国を撃破して優勝。翌年のロサンゼルスオリンピックでは銅メダル獲得の原動力となった。
1986年、21歳で代表チームのキャプテンとなってからは、チームの柱として、また女子バレー界の看板選手としてキャリアを重ねていく。1992年のバルセロナオリンピックでは日本選手団の顔として旗手を務めた。
現役引退後は解説者やタレントとしても活躍した中田久美さんだが、指導者としての強い引き合いもあり、2011年から実業団最強チームの久光製薬スプリングスのコーチに就任、翌年には監督となる。また、2016年から日本代表チームの監督に就任。日本の女子バレー界は「中田ジャパン」一色となっている。
指導者としての中田さんは、その強面で有名だ。コート上ではいつも中田さんの強烈な怒号が響いている。代表チームの試合では実況解説をすることも多い中田さんだが、不甲斐ない結果に終わるとデスク上のペンをへし折って怒りを表したというエピソードがある。そんな負けん気の強さがあったからこそ、これだけのキャリアを積むことができたのかもしれない。
日本の女子バレーにとって、中田久美さんは育ての親も同然の存在と言える。 選手として監督として、またバレー界の広告塔として、彼女以上のキャリアを積んでいる人はいない。 これからも中田久美さんの活躍に大いに期待したい。