子ども時代からスターだった!木村選手の抜きん出たバレーボール人生
木村沙織選手は、1986年8月に埼玉県で生まれ、東京都で育った。両親がバレーボール選手だった影響もあり、小学2年生の時にバレーボールを始める。小学生時代は秋川JVC、中学・高校時代は名門成徳学園で厳しい練習を重ねた木村選手。持ち前の運動神経に恵まれた体格が加わり、めきめきと実力をつけていった。
中学生時代は全日本中学校バレーボール選手権で優勝。高校生時代は2003年の春高バレーで全国優勝を果たす。この活躍がきっかけとなって全日本強化選手に選ばれ、高校2年生の時に全日本代表選手デビュー。高校生でナショナルチームに選出された例は、バレーボールでは稀だ。木村選手の才能の片鱗がうかがえる。
鮮烈デビュー!高校3年生で代表スタメンに選ばれた木村沙織選手
木村沙織選手が初めて日本代表チームのスターティングメンバーとなったのが、2004年5月に東京で開催されたアテネオリンピック最終予選大会だった。この時、木村選手は高校3年生の18歳だったが、第1戦の対イタリア戦では14得点をマークする大活躍。若さあふれるルックスもあいまって、日本中のバレーボールファンに木村沙織の名を印象付けた鮮烈なデビュー戦となった。
同年8月に開催されたアテネオリンピックの本大会では、運悪くヘルニアを発症してしまい、ほとんど試合に出場できなかった。高校卒業まで、腰痛の影響でほとんど活躍できなかったが、木村選手のそれまでの実績と抜きん出た才能を実業団チームが見逃すはずはない。成徳学園卒業後、東レ・アローズの選手として新たなバレーボール人生をスタートさせた。
木村沙織選手は東レアローズの不動のエース!リーグ3連覇の立役者に
東レ・アローズに所属した木村沙織選手は、いきなり2005年のVリーグ開幕戦からその才能を見せつける。アタッカーとしてスタメン出場した木村選手は、チーム1位の52%もの決定率を叩き出してチームの勝利に貢献。リーグの前・後半を通じて安定したアタック決定率を示した木村選手は、見事新人賞を獲得する。
東レ時代の木村選手のキャリアの中で最も輝かしい功績といえば、チームのリーグ3連覇だ。2007年シーズンに東レのリーグ初優勝に主力メンバーとして貢献。続く2008年、2009年シーズンも優勝を重ねた。個人としても、3年連続のベスト6やMVPに選ばれるなど、選手として文字通り日本女子バレー界のトッププレイヤーにのぼりつめる。
日本代表チームでは28年ぶりのメダル獲得に貢献した木村沙織選手
木村沙織選手の実力は、リーグにとどまらず日本代表でも存分に発揮される。
2007年のアジア選手権では日本女子チームの要として、チームの優勝の原動力となる。2008年の北京オリンピックでは、メダル獲得はならなかったが、見事5位入賞を果たした。2010年の世界選手権では、日本代表は32年ぶりの銅メダルを獲得。個人の得点数でも2位となり、アタッカーとしての実力を見せ付けてくれた。
木村選手の代表チームでのピークは、やはり2012年のロンドンオリンピックだろう。33得点を挙げる大活躍もあり、準々決勝でオリンピックでは一度も勝てなかった強敵中国を撃破すると、3位決定戦で韓国を破り、銅メダルを獲得する。日本女子代表チームの28年ぶりのメダル獲得となり、日本中が祝福ムードに湧いた。
木村沙織選手最大の功績はバレーボール人気を広げたこと
木村沙織選手の場合、なんといってもバレーボール人気を広げた功績を無視することはできない。明るい性格に愛くるしいルックスというスター性を備えた木村選手は、それまでバレーボールに関心のなかった層もふくめ、老若男女たくさんのファンの心をつかんだ。
2011年には、バレーボール選手としては珍しいフォトエッセイブックを出版。また専門誌「月刊バレーボール」の表紙を1年2ヶ月にわたって飾ったエピソードも、木村選手の人気の証といえるだろう。
2012年シーズンで現役引退を決めていたにもかかわらず、現役を続行することになったのも、バレーボール界における木村選手の存在感を重視した日本代表の眞鍋監督による強い引き止めがあったからだと言われている。
まとめ
2016年シーズン限りで現役を引退することを表明した木村沙織選手。
30歳という年齢や、日本女子バレーの不動のエースとして、またバレー界のスター選手としての活躍ぶりを思うと、もっともっとコート上で躍動する姿を見ていたい。
木村選手に続く新たなスター選手の登場も心待ちにしよう。