いまだ語り継がれる伝説の試合 その1
男子バレーの名勝負といえば、やっぱり1972年ミュンヘンオリンピック、準決勝のブルガリア戦だ。セットカウント0-2という絶体絶命の状態から見事な大逆転勝利を果たし、その勢いのまま決勝で東ドイツを破り金メダルを獲得した。あまりにも劇的な勝利にいまだ「ミュンヘンの奇跡」と語り継がれている。
当時の日本チームを率いていたのは松平康隆監督。1964年の東京オリンピックではコーチとして銅メダル、1968年のメキシコオリンピックでは監督としてチームを銀メダルに導いた実績のある監督だ。ここまで銅→銀と来ていたため、ミュンヘンでは金メダルを待望されていた。ここまで順調に勝ち上がり、日本中が注目する中いよいよ迎えた準決勝だった。
試合は一方的な展開から始まった。相手チームのエース、ズラタノフにセンターからのクイックを次々に決められ、あっという間に0-2に。しかし、松平監督は落ち着いて選手たちにこう言う。「あと2時間コートに立っていろ。そしたらお前たちは勝っている」と。
いまだ語り継がれる伝説の試合 その2
当時の松平ジャパンの武器は、徹底的なデータバレーと鍛え抜かれた守備力だった。当時の日本国内では9人制バレーが主流。そのためほとんど守備をしない選手も珍しくなかったのだが、オリンピックの6人制バレーではそうはいかない。
そこで松平監督はエースの南将之選手を中心に、徹底的に守備力を鍛え上げてきた。この試合で落ち着いていられたのも、相手のスパイクにきっちりと対応できるだけの守備力があると自信を持っていたからだ。
そして試合は監督の思惑通りに動いていく。第3セットから選手を交代し、守備を鍛え上げてきた選手たちを投入。相手の攻撃を何とかしのぎ、ここからリズムをつかんでいくと、そのまま第3セット・第4セットを15-9で取り返す。
そして迎えた勝負の第5セット、一時は3-9と6ポイントリードされるも、ここで再び選手交代。ベテランの猫田勝敏選手がセッターに入ると、トスで相手を翻弄して3連続でポイントを獲得。
流れをつかんだ日本はその勢いのまま一気に逆転し、15-12で最終セットを取り、見事な大逆転で決勝へと駒を進めるのだ。試合時間は3時間15分、第2セット終了から約2時間の逆転劇だった。
16年ぶりのオリンピック出場 その1
もう1試合は北京オリンピック予選、16年ぶりのオリンピック出場を決めた試合だ。当時チームを率いていた植田辰哉監督が、感極まったあまりコートに大の字でうつぶせに倒れてしまったシーンは有名だ。彼は元々1992年のバルセロナオリンピックでキャプテンを務めていた人物。そのため、オリンピックにかける想いはひときわ強いものを持っていたのだろう。
迎えた北京オリンピック予選。初戦のイタリア戦では粘りを見せるも敗戦してしまい、またもやオリンピックは夢のまま終わってしまうのかと、周囲の空気が重たくなる。しかしここから快進撃を見せ、イラン・韓国・タイ・オーストラリアに4連勝し、あと1勝でオリンピック出場が確定するところまでやってきた。そして次の相手は当時世界ランク6位のアルゼンチン。簡単に勝てる相手ではなかった。
16年ぶりのオリンピック出場 その2
第1セットは相手にリードを許す苦しい展開。日本も粘りを見せ何とか24-24まで盛り返すものの、結局逃げ切られて26-28で落としてしまう。しかし第2セットはエースの山本隆弘が絶好調だった。サーブ・スパイク・ブロックすべてにさえわたり、25-13と圧倒的な差でセットを奪い返す。
しかし第3セット。序盤こそ11-6といい流れが続いていたが、セッターの朝長孝介選手にミスが出てしまい、一気に11-11の同点に。苦しい日本だったが、ここで流れを変えたのがキャプテンの荻野誠二選手だった。セット途中から試合に入ると、見事なスパイクでチームのピンチを救い、そのまま25-19でセット連取に成功した。
一気に試合を決めたいところだったが、プレッシャーからかミスが目立ち、第4セットは17-25で取り返されてしまう。
そして運命の第5セット、両者譲らず膠着状態が続き18-18。しかし、ここでアルゼンチンが痛恨のサーブミス。19-18となり、日本がマッチポイントを迎える。緊張のかかるポイントだったが、まずサーブをしっかり入れると、相手のスパイクもきっちりとレシーブ。そしてボールはセッターの朝長選手へ。最後は朝長選手のトスをベテラン荻野選手がスパイクし、ボールは見事相手のコートを引き裂き、夢舞台の切符が日本の手へと渡ったのだ。
まとめ
昔の試合からつい最近の試合まで2試合紹介した。
あの時の感動を少しでも感じていただけたら幸いだ。
現在は少し低迷している日本男子バレーだが、全盛期のようなさらなる活躍を期待している。