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テニス界の偉人、佐藤次郎の功績

2016 9/23 20:08
テニス 佐藤次郎
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Photo by David Lee/Shutterstock.com

過去に偉業を成し遂げたテニス選手、佐藤次郎選手を知りたいと思わないだろうか?
日本人最高となる世界ランキング3位に上り詰めた、佐藤次郎選手の功績を紹介する。

日本人のテニス界の歴史

日本人初の記録を次々と打ち立てていく錦織圭。その輝かしい功績に対して、比較される過去のテニスプレイヤーの中に、錦織圭が乗り越えなければならない壁ともいえる偉大な面々がいる。
日本人テニス選手として史上初の全米選手権ベスト4の記録を持ち、土のコートで圧倒的な強さを誇っていた熊谷一弥。ウィンブルトンでベスト4の清水善造。全仏・全豪・ウィンブルドンでベスト4の記録を持ち、世界ランキング3位まで上り詰めた佐藤次郎など、過去の日本テニス界にこんな怪物がと驚くほどの記録の持ち主がいる。

佐藤次郎とテニス

その中でも、錦織圭と比べられることの多い、佐藤次郎について述べてみたいと思う。小学校に入学し、兄とともにテニスを始めた彼は、放課後誰もいなくなるまで練習し、練習をすると決まっている日には、たとえ雨でもコートに出かけ、ほとんどの部員が休んでいても、一人で他の部員が来るまでまっているような真面目な人柄だったそうだ。
高度なテニスの技術に加えて、コートマナーの良さは海外でも高く評価され、日本が生んだ最高の大使と評されるほどだった。

佐藤次郎の偉業

早稲田大学在学中に日本チャンピオンとなり、全仏・全豪・ウィンブルドンで合計5回のベスト4、ダブルスで布井良助と組んでの準優勝という偉業をなしとげ、世界ランキング3位の記録を獲得する。粘り強いフットワークが最大の持ち味で、キレのある動きをする選手だった。
攻撃のタイミングを見計らい、試合のペースを自身のものとする佐藤次郎は、いかつい容姿もあり、世界のライバル選手たちから「ブルドッグ佐藤」と称されていた。

テニス界に激震。突然の悲報

国際的に活躍し、このままいけば4大大会での優勝も夢ではないと目されていたものの、奥州への遠征途上のマラッカ海峡で船から投身自殺を図り、命を落とした。当時26歳であった佐藤次郎は、戦争へ向かう時代の中、心身ともに疲弊して試合に集中できず、期待に応える成績があげられないことに対し、死をもって国へ謝罪するといった内容の遺書を書き残していた。「庭球は人を生かす戦争だ」という持論を語っていた彼にとって、エースとしての責任感や重圧は、想像を絶するものだったのだろう。佐藤次郎の死は、海外でも報道され、

オーストラリアのテニス・ジャーナリスト、ブルース・マシューズは自著『ゲーム・セット・栄冠?オーストラリア・テニス選手権の歴史』(全豪オープンの歴史書)にて、「当時の観客は(佐藤の試合を通して)生死をかけた闘いを見ていることに気づかなかった。(今となっては)探り得ない佐藤の心は(5度の準決勝敗退を)天皇と日本国民を失望させる、耐え難い屈辱とみなした」

出典: exciteニュース

と記している。

まとめ

現在のテニスブームの裏であまり話題に上ったことのなかった、歴史に埋もれた非業のテニス界の偉人、佐藤次郎。戦争がもたらした悲劇的な結末だが、忘れてはいけない人物であることは間違いない。