国枝慎吾選手の生い立ちと、テニスとの出会い。
国枝慎吾選手は1984年2月21日に生まれの現在32才。9才の時に脊髄腫瘍のため下半身麻痺になった。車いす生活が始まった国枝選手は、小学校6年生の時にテニスが大好きだった母親の勧めで「吉田記念テニス研修センター」で車いすテニスを始めている。
始めた当初は難しいスポーツに感じて、なかなかテニスを好きにはなれなかったそうだ。現在も国枝選手が拠点にしている同センターだが、20年近く前に車いすテニスのコースを設けていて、なおかつ通うのが可能な距離に自宅があったというのは、出会うべくしてテニスに出会ったとも言えるかもしれない。
日本車いすテニス界での軌跡
11才からテニスを始めた国枝選手は高校1年生で海外遠征をし、オランダの国際大会を制してジュニアチャンピオンになっている。そして現在もコーチである丸山弘道から指導を受け、初めて本格的に競技に取り組むことになる。
2003年の大学生の時には、「NEC全日本選抜車いすテニス選手権大会」の男子シングルスにて、当時連覇中であった齋田悟司選手を破って初優勝し、翌2004年のアテネパラリンピックに出場、齋田選手と組んだダブルスで金メダルを獲得した。そして2006年10月には、自身初の世界ランキング1位になる。2007年に、全豪オープン、ジャパンオープン、ブリティッシュオープン、全米ウィールチェアを制覇することで、史上初の車いすテニス男子シングルスでグランドスラム(2007年当時)を達成し、ITF(国際テニス連盟)世界チャンピオンにも選出された。
その後2008年北京パラリンピック、2012年ロンドンパラリンピックで、男子シングルスを金メダルで2連覇、北京パラリンピックにおいては齋田選手と組んだダブルスでも銅メダルに輝いた。北京パラリンピック後の2009年には、日本の車いすテニス選手として初めてのプロ選手に転向した。現在、シングルス20回、ダブルス20回の計40回優勝しており、グランドスラム車いす部門において男子歴代最多の記録保持者だ。
国枝慎吾選手にとってのテニスとは
テニスを始めた当時より競技人口が増えたであろう車いすテニスは、現在でもマイナースポーツの一つだろう。まだ麗澤大学の職員だった2008年のインタビューで、国枝選手は
主な仕事は、テニスをすること
出典:
英国ニュースダイジェスト
と語っている。自分自身が活躍し、勝ち続けることで報道される機会を作らない限り、車いすテニスはなかなかニュースにはならないのだ。車いすテニスと通常のテニスとでは、ルールに差はほとんど無く、大きな違いが、車いすテニスでは自陣で2バウンドまで許されるという点だ。つまり、錦織選手やジョコビッチ選手の試合を観ている人は、違和感無く試合を観る事ができるわけだ。国枝選手は自身のプレーで、車いすテニスの魅力をより多くの人に伝えようとしているのだ。そしてその原点は高校生の時に抱いた
何か一つ人生において胸の張れるものを持ちたい
出典:
国際連合広報センター
という思いにあるのだろう。
プロテニスプレーヤーを引退したら?
現在のチェアワークを観る限り、国枝選手が引退を意識するようになるのは、まだまだ先のような気がする。しかしスポーツ選手であれば誰しもが、現役の先を考える時が来るはずだ。国枝選手がプロプレイヤーを引退したら何をするのか考えてみたが、思い浮かばなかった。というのも、何かが大きく変わる、という事はないと思ったからだ。過去も現在も、そして未来においても、国枝選手はただ一つ【大好きな車いすテニスがもっと注目されるように】、そのための活動をするのだと。
まとめ
国枝慎吾選手が勝ち続けていることで、車いすテニスがメディアに登場する場面が以前より増えたと思う。そのことによって、車いすテニスはもちろん他の障害者スポーツに目を向ける機会が増えていく中で、障害者スポーツの激しさや面白さに驚きつつも、純粋に1つのスポーツとしてそれらを楽しむことができるだろう。