「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

テニスの「奇跡」~歴代の名エピソード~

2017 4/12 00:24おしょう
テニス
このエントリーをはてなブックマークに追加

出典 David Lee/Shutterstock.com

テニス界では、これまでいくつもの名勝負・名エピソードが生み出された。 そんな中、「奇跡」と言われるような出来事も数々起きてきた。 今回はテニスで起きたいくつかの奇跡のエピソードを紹介する。

フェデラーと聖地で戦った世界772位

世界のトップ選手が集う4大大会の一つウィンブルドン。2016年の大会第2戦で、そのセンターコートで、当時世界ランク3位のロジャー・フェデラー選手と世界ランク772位のマーカス・ウィリス選手が戦う、という異例の試合が実現した。
ウィリス選手は25歳。地元イギリスの小都市でテニスクラブでコーチとして働いている選手だった。 そんなウィリス選手は、イギリス国内のプレーオフ3試合、予選3試合すべてで勝利を収め出場権を獲得した。 ストレートでフェデラー選手の前に屈したが、地元の会場は大いに盛り上がった。

世界ランク144位での銀メダル獲得

2016年のリオデジャネイロオリンピックで、フアン・マルティン・デル・ポトロ選手は、世界ランク144位にもかかわらず決勝まで勝ち上がり、銀メダルを獲得した。 しかし、彼本来の実力から考えると144位という順位は参考にならない。なぜなら、度重なる両手首の怪我が原因で治療と復帰を繰り返し、ランクを落としていたのだ。
デル・ポトロ選手は2009年にデビューすると、そこから破竹の23連勝!一気に頭角を現した。しかしそんな矢先、両手首を故障してしまう。 長い間のブランクからの復活劇は、見るものの胸を熱くさせた。まさに奇跡の復活劇だ。

マリア・シャラポワ選手、貧困からの成功?@

1986年、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起きる。その事故当時、マリア・シャラポワ選手の両親は原発からわずか130kmの場所に住んでいた。 シャラポワ選手の母親は当時妊娠4ヶ月。お腹のわが子のために、家族はそこから3000km離れた場所へ移住した。
しかし経済的に貧しく、満足におもちゃも買い与えられない。そんな中シャラポワ選手が出会ったのが父の趣味でもあるテニスだった。 それでも両親はラケットも満足に買い与えることができずに、シャラポワ選手は彼女には少々大きすぎる大人用ラケットでプレイしていたという。

マリア・シャラポワ選手、貧困からの成功?A

そんなシャラポワ選手に転機が訪れる。それは少女マリアが6歳の時のこと。当時の世界女王、マルチナ・ナブラチロワ選手の特別レッスンに参加したことだった。 ナブラチロワ選手はシャラポワ選手の才能を見抜き、アメリカ、ニック・ボロテリー・テニスアカデミーへの入学を勧める。
しかし経済的な負担が大きく、シャラポワ選手には叶わぬ夢かと思われた。しかし娘の才能を無駄にしたくない。そんな思いからシャラポワ選手の父は朝から晩まで仕事を掛け持ち、身内から借金をするなどしてなんとか留学資金を工面することに成功する。

マリア・シャラポワ選手、貧困からの成功?B

シャラポワ選手はなんとかアメリカへ移住できたが、家族全員ぶんの移住費用は賄えなかったため、父と二人での渡米となった。 その後も、多額の入学費・授業料が必要になるたびに、父は異国の地で朝も夜も働き続けた。すべてはシャラポワ選手の成功のためだ。
すると父の思いに応えてか、シャラポワ選手は若干11歳にして1億円もの契約金を獲得。 そして、2004年のウィンブルドンで、17歳という若さで優勝した。 優勝した瞬間、シャラポワ選手は観客席を駆け上がり、共に苦楽を分け合い、自分を常に支え続けてきてくれた父と抱き合って喜びあった。 貧困時代や数々の逆境からのサクセスストーリーは、まさに奇跡と言えるだろう。

まとめ

以上、テニス界での奇跡について紹介した。 シャラポワ選手やデル・ポトロ選手といった一流と呼ばれる選手でも、様々な逆境を乗り越えてきている。
またウィリス選手のように、予選から這い上がってくる可能性があることもテニスの魅力だ。 今後はどういった奇跡が見られるのか注目したい。