車椅子テニスがパラリンピックに登場するまで
アクロバットスキーのプレーヤーだったブラッド・パークス氏は、18歳の時に競技中の事故で下半身不随となり、競技生命を絶たれた。リハビリ生活を続けていたある日、ジェフ・ミネンブレイカー氏という人物が車椅子に乗った状態でテニスをしているのを知り、それを競技として発展させようと共同で取り組む。時は1976年、これが車椅子テニス誕生の瞬間だ。
2人の働きかけで1980年には全米車椅子財団が発足、翌81年には車椅子テニスの国際普及を目的とした車椅子テニス選手協会を設立し、競技教本を発行した。
普及活動は世界各地で行われ、1985年には欧州車椅子テニス連盟が、1988年には国際車椅子テニス連盟が設立される。そしてこの年に開催されたソウルパラリンピックに公開競技として選ばれ、男女でシングルスの試合が行われたのだ。
パラリンピックに名を残した日本人選手の先駆者たち
車椅子テニスが初めて公開された1988年ソウル大会は、パラリンピックという言葉が正式名称として使用された初めての大会でもある。公開競技の位置づけながら評価を得た車椅子テニスは、1992年のバルセロナ大会で正式競技に昇格、シングルスとダブルスで競技が行われた。
1996年のアトランタ大会は齋田悟司選手や大前千代子選手といった日本の選手がパラリンピックに初出場した大会で、車椅子テニスがアメリカやヨーロッパだけでなくアジアにも普及が進んでいることを印象づけた。また、この大会以降すべてのパラリンピックで日本人の車椅子テニス選手が出場し続けている。日本人選手として初めての金メダルは2004年のアテネ大会、齋田選手と国枝慎吾選手がペアを組んだ男子ダブルスだ。
パラリンピックにおける車椅子テニスのルール
車椅子テニスの大きな特徴として、2バウンドでの返球が認められる点がある。なお、2バウンド目はコートの枠外でも可とされている。通常のテニスとは違う2バウンドの返球を正式なルールとして扱うか注目が集まったが、国際テニス連盟がこれを承認したことで1988年ソウルパラリンピックの公開競技採用が実現したのだ。
また、競技としてのクラス分けには男子、女子、ジュニア、クァード、ニューミックスといったものがある。そのうちパラリンピックでは男子と女子、クァードの3つでシングルスとダブルスが行われる。クァードとは「四肢麻痺」の略称で、重度の障がいを持つ選手たちが出場するカテゴリーだ。これは2004年のアテネ大会から正式種目に加わった。
重要性を増す特殊技術の「チェアワーク」
車椅子テニスでは自分の足に代わって車椅子を操作する必要がある。テニスは元来動きの激しいスポーツなので、車椅子にも回転性や敏捷性に優れた専用の軽量タイプが使用される。また、前から見ると左右の車輪はハの字に傾いており、小さな補助輪も装着されている。これを操作しながらラケットでボールを打ち返すので、チェアワークに高い技術が求められるのだ。
特に近年は、障がいを持つ前からテニスを経験していたという選手が世界的にも増加している。こういった選手たちの台頭がチェアワークの技術力をさらに向上させている一因なのは間違いない。
日本では現在、スポーツ競技用車椅子の開発が目覚ましく発展している。そのきっかけは、製造者がパラリンピックで目の当たりにした外国選手たちの車椅子だったそうだ。
2020年東京へ?。車椅子テニス界を担う次世代の選手たち
車椅子テニスの日本人選手といえば、過去4大会にわたってメダルを獲得し続けている国枝慎吾選手、昨年のリオ大会で日本人初のシングルスにおけるメダリストとなった上地結衣選手が男女のエース的存在だ。特に上地選手は現在22歳と年齢的にも若く、2020年東京パラリンピックでも活躍が多いに期待される。
次世代を担う若手選手で注目を浴びているのが女子の大谷桃子選手。高校時代にはテニスでインターハイ出場の経歴を持つが、病気による投薬の副作用が下半身に影響し、車椅子テニスに転向した。2016年、競技経験8ヶ月で全日本マスターズ準優勝という快挙を果たし、一躍将来のエース候補に名を連ねた。
海外の逸材に目を向けると、イギリスのゴードン・リード選手やアルゼンチンのグスタボ・フェルナンデス選手など、1990年代生まれの名選手たちが東京パラリンピックの金メダルを虎視眈々と狙っている。
まとめ
国枝選手、上地選手の存在もあって、日本は車椅子テニスの強豪国に名乗りを上げている。
2020年東京大会は日本の選手たちにとって飛躍への大きなチャンスだ。
ダブルスでは2大会ぶり、シングルスでは史上初となる金メダル獲得なるか?
現地に駆けつけて応援したい。