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水泳女子自由形で日本人初となった金メダリスト柴田亜衣さんの功績

2016 11/29 21:30
柴田亜衣,アテネ五輪,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

アテネオリンピックで金メダルを獲得した元競泳選手の柴田亜衣さんをご存知だろうか。女子自由形で日本人初となった金メダリストでもあり、スポーツの普及活動や水泳の楽しさを子どもたちに指導することでも有名だ。そんな柴田亜衣さんの生い立ちや功績などを紹介する。

母の影響から水泳をはじめた幼少期の柴田亜衣さん

1982年5月14日に福岡県太宰府市で生まれた柴田亜衣さん。父親が転勤の多い仕事だったため、3歳のころ北九州市へと移住する。たまたま近所にスイミングスクールがあり、母親自身が泳ぐのが趣味だったこともあり、3歳の亜衣さんと3つ年上の姉をスクールに通わせることとなる。
次に移り住んだ徳島県美馬市でもスイミングスクールへと通い、その後も父親は転勤となるが単身赴任を選択し、母娘は美馬市で生活を続ける。

小学生から中学校にかけて徐々に水泳に打ち込んでいく柴田亜衣さん

実は体育は得意ではなく通知表も真ん中から下が多かった柴田亜衣さん。しかし水泳は幼少期から続けていたこともあり、クロール・平泳ぎ・バタフライ・背泳ぎのすべての型で泳ぐことができた。
小学校2年生までは週に2回ほどスイミングスクールに通い、徳島に移り住んだとき育成コースへと進む。それから毎日練習を続け、5年生になった頃には選手コースへとステップアップ。
中学生になると早朝と学校の帰りに1日で2回も練習するほど水泳に打ち込んだ。

大学に進んだことで気持ちに変化が起こった柴田亜衣選手

中学を卒業し徳島県立穴吹高等学校に入学。高校時代の彼女は自己タイムは更新していくものの、表彰台に上がったことはなく、インターハイでの順位は5位が最高だった。本人曰く厳しい先生だったため、先生に怒られないように頑張るという意識だったそう。
そんな柴田亜衣選手だったが大学に入るとその気持ちに変化が起こる。大学時代は休もうと思えば簡単に休める環境だったにもかかわらず、仲間や先輩たちは休まずに練習しているのを見て、自分はもっと速くなるために大学に進んだのだということを再認識したそうだ。
そこから水泳に取り組む姿勢が自発的になり彼女は変わっていく。

努力を重ねオリンピックへの切符を手にした柴田亜衣選手

彼女は、鹿屋体育大学に進んだことで、目標を決められて練習するのではなく自発的に自分で目標を作っていくスタイルへと変わる。オリンピックに出たいという夢も広がり、さらに努力を重ねていく。練習量も増え1日で20,000mも泳ぐ日々。高地トレーニングなども取り入れ、その努力がやがて実ることになる。
それは2004年のオリンピックの選考レースでもあった日本水泳選手権で基準を満たし、念願だったアテネオリンピック競泳の自由形400mと800mの代表の切符を手にしたことだった。

自由形で日本女子初の快挙を達成した柴田亜衣選手

むかえたアテネオリンピック。スタートが切られた800m自由形で、本命だったロール・マノドゥ選手に中盤で追いつき、残り50mで逆転。そのままゴールし見事優勝を果たす。初出場のオリンピックでの金メダル獲得。そして日本人女子としては初となる自由形の金メダリストという快挙だった。
その後もさまざまな大会で活躍を続け次に開催された北京オリンピックにも出場、しかし残念ながら予選落ちとなり引退を発表した。引退後はスポーツの普及活動や、自身の経験を生かしたプログラムと水泳の楽しさを、子どもたちに教える活動を行っている。

まとめ

日本女子初の快挙を達成した金メダリストの柴田亜衣さんを紹介した。引退後は指導者として活躍、結婚もされて1人の女性としても幸せな日々を送っている。彼女の成し遂げた努力と結果は、今後も新しい世代の競泳選手に受け継がれていくことだろう。