高校時代はアメリカンフットボールの注目選手
元横綱武蔵丸光洋は、1999年七月場所から2003年十一月場所までの27場所にわたり、第67代横綱として土俵を務めた。横綱での通算成績は216勝67敗115休、この間7回の優勝に輝いている。幕内通算成績は706勝267敗115休、大関時代の優勝と合わせて、優勝回数は12回を誇る。
出身地はアメリカ国ハワイ州となっているが、生まれはアメリカ領サモアだ。1971年5月2日生まれだが、まだ幼い頃に一家でハワイに移住する。そして、高校時代はアメリカンフットボールのディフェンスラインとして注目を集めた。当時の大相撲はハワイ出身の巨漢力士小錦が大関として活躍中で、曙は若手有望力士として注目を集めはじめた頃だった。武蔵川部屋に勧誘された武蔵丸は、大相撲入門を決意する。
甘くはなかった横綱への道
武蔵川部屋に入門をしても、すぐには初土俵は踏ませてもらえなかった。当時の武蔵川親方(元横綱三重ノ海)には、せっかく見つけた期待の新弟子に逃げられたことがある。そのため、つらい稽古に耐えることができるかどうか見極めたかったようだ。
そんなことがあって、やっと初土俵を踏んだのが1989年九月場所のことだった。翌十一月場所では7戦全勝でいきなり序の口優勝を飾る。これで自信を付けたのか、順調に出世を重ねる。1991年七月場所で新十両に昇進すると、十両は2場所で通過する。1994年三月場所では大関に昇進。昇進3場所目の七月場所では全勝優勝して、すぐにでも横綱かと思わせた。しかし、それほど甘くはなく、横綱になったのは1999年七月場所のことだった。
武蔵丸の記憶に残る記録
大関昇進3場所目の全勝優勝を生かせなかった武蔵丸は、結局横綱になるまで32場所を要する。これは横綱琴櫻に並ぶ最も遅い昇進記録として残っている。また、大関時代の優勝は5回を数えるが、全勝優勝の次の優勝は1996年十一月場所で成績は11勝4敗だった。
11勝での優勝は過去に一度あるだけで、幕内では最低勝ち星優勝の記録だ。この場所は順調に勝ち星を伸ばしていた大関武蔵丸と横綱曙が、終盤にきてバタバタと星を落とし、追い上げてきた横綱若乃花、大関貴ノ浪、関脇魁皇に並ばれてしまう。結局、巴戦を制した武蔵丸が2回目の優勝を果たしたが、11勝の優勝力士として記録に残ってしまった。
ライバルたちとの戦い
武蔵丸が大関に昇進した1994年三月場所の上位陣は、横綱に曙、大関に貴ノ花、若ノ花、貴ノ浪の豪華な顔ぶれが揃っていた。特に後に横綱になる若ノ花、貴ノ花の兄弟大関は、元人気大関貴ノ花の子供ということもあって、大相撲界に若貴ブームを巻き起こした。構図的には、人気の若貴対ハワイ出身の巨漢力士曙と武蔵丸といったところだ。
対戦成績を見てみると、若乃花(若ノ花から改名)には24勝14敗と分がいいものの、貴乃花(貴ノ花から改名)には19勝29敗と負けが先行している。ちなみに、ハワイの先輩横綱曙には16勝22敗と、こちらも簡単には勝たせてもらえなかったようだ。
苦労して武蔵川親方を襲名
横綱武蔵丸は、2003年十一月場所を最後に引退する。最後の優勝は2002年九月場所だったが、次の十一月場所からの1年間は左手首の手術などで休場と途中休場の繰り返しだった。
引退した武蔵丸は、四股名のまま親方になれるという横綱特権を使い、武蔵丸親方として武蔵川部屋に残る。国籍に関しては、大関時代の1996年1月に帰化しており、特に問題はなかった。ただし、横綱特権は5年間しか使えない。振分、大島と借り名跡を続け、現在の武蔵川を取得したのは2013年のことだった。
現在では武蔵川親方として後進の指導に当たる傍ら、テレビにも出演。西郷隆盛似の風貌と、どこかひょうきんな人柄で人気もある。
まとめ
武蔵丸はハワイ出身力士らしからぬ下半身の強さと恵まれた体格で、どんどん番付を上げていき、
若貴の好敵手として大いに土俵を盛り上げてくれた。
これからは明日の相撲界を担う力士たちをしっかりと育てていってほしい。