現在の横綱は3人ともモンゴル出身
外国人力士というと、まず思い浮かぶ出身地はモンゴルだろう。現在横綱の白鵬・日馬富士・鶴竜は3人ともモンゴル出身、この3人の前に横綱だった朝青龍もモンゴルから日本にやってきた。角界全体でも20人近くのモンゴル出身力士が活躍をしている。
しかし、昔から外国人力士=モンゴル出身というわけではなかった。彼らが活躍するようになったのは2000年代以降の話。それ以前はアメリカ、とりわけハワイ出身の力士が中心であり、中にはヨーロッパ出身の力士も活躍してきた。こうした角界の変化を時代ごとに振り返ってみよう。
初めての外国人力士はハワイ出身
外国人力士が登場したのは1964年のこと。ハワイ出身の高見山が外国籍を持つ力士として初めて土俵に上がった。それ以前の1927年にも日系アメリカ人2世の平賀という力士がいたのだが、純粋な外国籍の力士は高見山が初めてだった。
来日した当初の高見山は非常に苦労した。厳しい稽古、慣れない環境。特にちゃんこの味に慣れるのには非常に苦労したんだとか(白身魚が苦手だったそうだ)。また、体が硬くて股割りも満足にできず、涙を流してしまったこともあった。
しかし苦労に苦労を重ね、ようやく日本にも慣れてきたのか、3年目の1967年には十両に昇進。さらに翌年には3月場所で当時の横綱・佐田の山に勝利して初金星を挙げると、9月場所でも横綱・柏戸に勝利して、この年2つ目の金星を獲得。その後も順調に勝ち星を重ね、1969年に小結に昇進した。さらに勢いはとどまらず、1972年には幕内優勝を果たし関脇にまで昇進。結局大関昇進はならなかったものの、1984年まで現役を続けるなど息の長い現役生活を送った。
90年代に一気に増えた外国人力士
高見山が引退する少し前、とある力士が彼のスカウトによって日本にやってきた。小錦である。
高見山と同じくハワイ出身。「ハワイの黒船」と呼ばれ、高見山が果たせなかった大関昇進を果たす。以降90年代にかけてハワイ出身の力士が数多く来日してきた。横綱にまで上り詰めた曙や武蔵丸を筆頭に、高見州や大和、南不、砂浜、大喜などなど。10人近くのハワイ出身力士が番付に名を連ねていた時期もあった。
そして、この時期にはさまざまな国から力士が来日している。アルゼンチンからは1988年に2人、ブラジルからも1991年に5人が来日するなど、南米出身の力士も続々と名を連ねる。また、初のヨーロッパ出身力士が誕生したのもこの時期だ(イギリス出身で英ノ国という四股名で活躍していた)。
モンゴル出身力士もこのころから
そして、やはり初のモンゴル出身の力士もこの時期に誕生している。1992年にモンゴルから旭鷹・旭獅子・旭鷲山・旭雪山・旭天鵬・旭嵐山の6人が来日。もともと向こうではモンゴル相撲が盛んだったし、日本の相撲がテレビで放送されていたこともあり、彼らにとって日本の相撲はあこがれだったのだ。実際に大島親方がモンゴルで新弟子の募集を行ったところ、170人もの力士候補が応募してきた。この6人もここで選ばれたメンバーだ。
特に旭鷲山は小結、旭天鵬は関脇にまで昇進した。だが、彼らの最大の功績はモンゴル人が日本で活躍する道を切り開いたということだろう。特に旭鷲山はたくさんのモンゴル人力士を日本へ紹介してくれた。朝青龍も旭鷲山にあこがれて明徳義塾高校へ留学してきたし、白鵬や日馬富士も鶴竜も、やっぱり旭鷲山の影響を受けて日本へやって来たのだ。彼がモンゴル人力士にとってひとつの時代を築き上げたといっても過言ではないだろう。
2000年代はヨーロッパ出身力士も多い
また、2000年代に入るとさらにいろいろな国から力士がやってくる。特にヨーロッパから多くの力士が来日し、ブルガリア出身の琴欧州やエストニア出身の把瑠都は大関に昇進するほどの活躍を見せた。また2000~05年にかけてロシアからも5人ほど力士が来日した。どうやらヨーロッパでは相撲は人気のあるスポーツらしく、日本以上に熱狂的なファンがいるのだそうだ。
その後はあまりにも外国人力士が多くなったため、少し規制が強くなってしまったが(現在では国籍にかかわらず『外国出身』の力士は1部屋に1人までと定められている)、それでもブラジル出身の魁聖、エジプト出身の大砂嵐、グルジア出身の栃ノ心や臥牙丸は第一線で活躍している。それだけいろいろな国で相撲が愛されているということだ。
まとめ
日本人力士が活躍してくれるのはもちろんうれしいが、いろいろな国の力士が活躍をすることで、さらにいろいろな国の人々が日本の相撲に興味を持ってくれるというのも実に喜ばしいことでもある。