伊勢ヶ濱初代は行司の式守伊之助
伊勢ヶ濱部屋は、伊勢ヶ濱一門のリーダーとして、横綱日馬富士公平、大関照ノ富士春雄らを有する大部屋だ。現在は元横綱旭富士正也が伊勢ヶ濱親方として部屋の運営にあたっている。
元々は江戸勧進相撲の名跡・伊勢ノ海部屋からの分家独立で、初代伊勢ヶ濱は行司の5代式守伊之助だった。江戸時代後期1840年?1850年に活躍した人だ。2代目は小結荒熊之助という力士で、伊勢ヶ濱襲名は1859年、江戸時代終わりの安政年間の頃だった。3代目は伊勢ノ海部屋の関脇だった両国が引き継いだ。この頃になると時代も明治へと移る。
伊勢ヶ濱6代目は名横綱照國
4代目は鶴ヶ濱熊吉という元大阪相撲所属の力士だった。伊勢ヶ濱を襲名するも後年廃業している。5代目は熊ヶ谷部屋で関脇を務めた清瀬川敬之助だった。清瀬川は伊勢ヶ濱を襲名すると、現役時代からの内弟子をひきつれて伊勢ヶ濱部屋を興す。その部屋で横綱まで出世したのが第38代横綱照國萬藏だった。
照國は伊勢ヶ濱部屋に入門すると順調に出世し、当時の最年少記録を次々に塗り替えて横綱に昇進する。横綱昇進をはじめとする最年少記録は、後に横綱大鵬幸喜が登場するまで破られることはなかった。照國は当時の大横綱双葉山定次にも対戦成績で3勝2敗と勝ち越している。
そして、引退後は荒磯部屋を興し、伊勢ヶ濱部屋の力士を譲り受けるが、やがて伊勢ヶ濱を襲名すると、伊勢ヶ濱部屋として部屋の運営に当たる。
伊勢ヶ濱部屋の閉鎖
6代目伊勢ヶ濱は新弟子の発掘も熱心で、大関清国勝雄や関脇開隆山勘之亟などを育て上げる。そして7代目は大関清国が襲名して、部屋の運営を引き継いだ。この頃の主だった力士には、小結黒瀬川國行、幕内若瀬川剛充などがいるが、大関、横綱は育たなかった。
7代目が定年退職で引退すると後継者問題が浮上する。やむなく、弟弟子で部屋付き親方を務めていた元幕内和晃敏郎が伊勢ヶ濱部屋を継承する。しかし、8代目となったもののすぐに定年を迎え、後継者不在のまま伊勢ヶ濱部屋は解散のやむなきに至った。2007年一月場所後のことだった。
現在の伊勢ヶ濱部屋
2007年11月、それまで安治川親方として安治川部屋を運営していた元63代横綱旭富士が9代伊勢ヶ濱を襲名する。それに合わせて部屋の名称も伊勢ヶ濱部屋と変更した。ここに伊勢ヶ濱部屋は復活を果たすことになったのだ。そして、閉鎖となった元横綱2代若乃花幹士の間垣部屋や、元大関大受久晃の朝日山部屋の力士を受け入れ、所帯も大きくなった。
大関照ノ富士も間垣部屋から受け入れた力士の一人だ。伊勢ヶ濱部屋には横綱日馬富士、大関照ノ富士の他にも、幕内安美錦竜児、宝富士大輔、誉富士歓之と5名の関取が所属し、現在でも活躍している。
まとめ
名跡伊勢ヶ濱は江戸時代後期、行司だった式守伊之助によって伊勢ノ海部屋から分家独立した。
昭和初期、5代目になって伊勢ヶ濱部屋が創設される。横綱照國、大関清国らの名力士を輩出するも、後継者不足で一度閉は鎖されてしまう。
現在の伊勢ヶ濱部屋は元横綱旭富士によって再開され、伊勢ヶ濱部屋一門を構成している。