生い立ち
岡崎朋美は1971年9月7日生まれ。北海道斜里郡清里町出身で、実家は酪農業を営んでいた。幼少期はスケートには特に縁がなかったが、小学校3年生の時にスケートに興味を持つ。転校生へのライバル意識からスケートを始めたのだった。
彼女は2013年、43歳まで競技を続けたが、それは幼少期に食べていたもぎたての野菜、搾りたての牛乳によって体の基礎ができたおかげと、引退後に語っている。
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岡崎朋美は5大会連続でオリンピック出場した日本を代表する女子スピードスケート選手だ。岡崎朋美の生い立ちから功績までを紹介する。
岡崎朋美は1971年9月7日生まれ。北海道斜里郡清里町出身で、実家は酪農業を営んでいた。幼少期はスケートには特に縁がなかったが、小学校3年生の時にスケートに興味を持つ。転校生へのライバル意識からスケートを始めたのだった。
彼女は2013年、43歳まで競技を続けたが、それは幼少期に食べていたもぎたての野菜、搾りたての牛乳によって体の基礎ができたおかげと、引退後に語っている。
小学校卒業後、地元の清里中学校に進学してスケートを続けるが、当時はそれほど優れた成績は残せていなかった。同じスケート部の仲間にも負けてしまうほどで、彼女がスケートをしていることを中学校の同級生ですら知らないほどだったという。
しかし、持ち前の「負けん気の強さ」でさらにスケートに熱中し、親元を離れてスケートの名門・釧路星園高校に進学した。高校時代の最高成績はインターハイ5位。それだけでも十分な成績だったが、岡崎自身は競技を続ける気はあまりなく、高校卒業後は競技をやめようとも思ったが、そこで運命的な出会いがあった。
岡崎朋美は、とある大会で、その素質と体格に目を付けた富士急行の長田照正監督にスカウトされ、入社することを決意。
そこで橋本聖子と出会い、猛練習に泣きながら必死で食らいつく日々を重ねる。その努力が実り、1992年11月、真駒内選抜500mで初優勝。続く翌週のW杯軽井沢大会で世界の舞台に立った。
順調に成長を続けた彼女は、翌年の全日本スプリント500mで4位に入り、念願のリレハンメルオリンピックの切符を手に入れたのだ。
初めてのオリンピックとなった1994年のリレハンメル大会。そこで岡崎朋美は500m14位の結果を残した。その後も勢いに乗った彼女はW杯優勝、日本新記録樹立など、立て続けに結果を残し、1996年、1997年には全日本スプリント連覇を成し遂げる。
そして1998年、満を持して日本で開催された長野オリンピックに臨んだ。オリンピックという大舞台にもかかわらず、日本新記録を出すなど、絶好調をキープした岡崎朋美は、日本女子短距離で初となる銅メダルを獲得。その際に見せた「朋美スマイル」で一躍時の人となったのだ。
岡崎朋美は長野オリンピックでの活躍で人気者となったが、オリンピックの2年後、持病の椎間板ヘルニアを手術することになる。
それでも2年後のソルトレイクオリンピックでは日本新記録を叩き出し、見事に復活。その後、最終的にオリンピックに5度出場と、長きに渡って活躍した。W杯でも3度の銅メダルを獲得している。
2013年、妊娠を経て、自身6度目となるソチオリンピック出場を目論むが、代表選考会で惜しくも6位に終わり、現役引退を決意。長い間、日本の女子スケート界で功績を残してきた選手だった。
岡崎朋美は手術や体調不良でベストコンディションでなくても結果を残すなど、驚異的な精神力の持ち主だった。現役時代を通して怪我も少なく、まさに「無事之名馬」と言える選手でもあった。今後の彼女からも目が離せない。