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スピードスケート「黒岩敏幸」~偉大なる功績~

2017 2/9 18:26
スピードスケート オリンピック
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Photo by sportpoint / Shutterstock, Inc.

黒岩敏幸は、オリンピック3大会出場、銀メダル獲得など、1990年代を代表する名選手だ。 今回は、黒岩敏幸の生い立ちから功績までを紹介する。

生い立ち

黒岩敏幸は、多くのスケート選手を輩出した群馬県吾妻郡嬬恋村出身だ。嬬恋村では冬になるとスケートが盛んになり、3歳の頃から天然の田んぼリンクなどで遊びとしてスケートを始めた。 小学校4年から、課外活動のスケート部に入部。毎日暗くなるまで練習に打ち込むなど、スケートにのめり込んでいくことになる。
中学校に進学後も、さらにスケートに熱が入り、練習を重ねる日々が続く。そんなある日、黒岩に1つのターニングポイントが訪れる。

同じ姓の「黒岩選手」

中学3年の時、同郷のスピードスケート選手・黒岩彰がサラエボオリンピックに出場した。この時は、村をあげて応援するほどの熱の入りようだった。残念ながらメダルは獲れなかったものの、これほど人を感動させるスケートに対して感銘を受けた。
そこで、取材を受けた際、「将来の夢はオリンピック選手」と答えている。これをきっかけに、高校に進学してからも、スケート選手にとってきつい夏場の練習にも熱心に打ち込むなど、人一倍努力を続けた。

全国から世界へ

高校1、2年の時には全国大会とは無縁だったが、3年の時に初めてインターハイに出場し、2位と結果を残す。それから、日本大学へ進学して、さらにきついトレーニングを重ねた。
1991年に世界スプリント選手権総合3位と、世界でもその実力が通用することを証明。その翌年、自身初となるオリンピック、アルベールビル大会に出場。それまで国際大会を転々としていた黒岩は、リラックスできた状態でオリンピックに挑み、見事に初出場で銀メダル獲得の快挙を成し遂げた。

「スランプ」との戦い

オリンピックで銀メダルを獲得した黒岩は、日本へ凱旋帰国。そこで初めて自分の成し遂げたことの大きさを実感したのだった。しかし、その期待や応援の声が重圧となってしまい、その後の大会では結果が残せない日々が続いたうえ、度重なる怪我の影響で、精神的、肉体的に追い込まれてしまう。
そんな中でも、1994年のリレハンメルオリンピックの出場権をなんとか獲得するが、11位に沈んだ。4年後の長野オリンピックでは、全盛期の力はなかったものの、金メダリスト清水宏保など若手選手へのサポート面でも貢献した。

現役にこだわり続けた中の「引退」

長野オリンピックの当時、黒岩はすでに28歳だった。国内のオリンピックを花道に引退。周囲は誰もがそう思っていた。しかし、黒岩は現役続行に強いこだわりを見せる。
2002年のソルトレークオリンピックを目指すために所属企業を退社し、貯金を切り崩してトレーニングをする日々。そんな過酷な日々を続けても、4度目のオリンピック出場はならなかった。 後に彼は、その4年間があったからこそ、完全燃焼できたと語っている。

まとめ

スポーツ選手の引退には、さまざまな形がある。 優秀な成績を残してすっぱりやめる人。そして、黒岩のように現役にこだわり続け、完全燃焼するまで続行する人。 どちらが良いかは甲乙つけがたいだが、完全燃焼まで続けるその「心意気」は素晴らしく、スポーツの奥深さでもあるのではないだろうか。