宇津木妙子監督の生い立ちとソフトボールとの出合い
1953年4月6日、埼玉県比企郡川島町(当時は中山村)に生まれ、元気にすくすくと育った宇津木妙子さんは、埼玉県川島町立川島中学校に入学。1年生のときにソフトボールを始める。その後もソフトボールを続け、星野女子高等学校に進学し三塁手として活躍。
1972年に卒業すると日本ソフトボールの女子1部だった実業団のユニチカ垂井に入社。日々練習をこなしソフトボール部で実力をつけていく。
Photo by Barry A Mosley Photography/Shutterstock.com
北京オリンピックで優勝したその瞬間、ソフトボールの選手たちが解説席にいた宇津木妙子さんに向かって、ガッツポーズを見せたシーンは印象的だった。選手たちからも信頼される元日本代表の宇津木妙子監督の生い立ちや功績を紹介していく。
1953年4月6日、埼玉県比企郡川島町(当時は中山村)に生まれ、元気にすくすくと育った宇津木妙子さんは、埼玉県川島町立川島中学校に入学。1年生のときにソフトボールを始める。その後もソフトボールを続け、星野女子高等学校に進学し三塁手として活躍。
1972年に卒業すると日本ソフトボールの女子1部だった実業団のユニチカ垂井に入社。日々練習をこなしソフトボール部で実力をつけていく。
実業団に入って成績を重ね、1974年には日本代表として最年少で世界選手権に出場。準優勝に大きく貢献した。現役時代は“瞬発力の宇津木”と呼ばれ、観客を魅了する選手だった宇津木妙子さん。10年ほど活躍した1985年に選手を引退した。
その後ジュニア日本代表コーチを経て、日本リーグのルネサスエレクトロニクス高崎(入団当時は日立高崎)に監督として就任する。ここから宇津木妙子監督の指導者としての新たな道がスタートした。
指導者として新たにスタートをきった宇津木妙子監督だったが、女性が監督を務めるのは日本リーグでは初だった。女性監督として注目が集まる中、周囲の期待以上の指導力を発揮する。
在籍した当時は3部リーグだったチームを3年後には見事1部リーグに昇格させただけでなく、全日本総合選手権で5回の優勝、日本リーグではなんと優勝3回と好成績を残す。こうした好成績が認められ、1997年には日本代表監督に就任した。
1998年7月に開催された世界選手権では銅メダルを獲得。宇津木妙子さんは日本代表チームの監督としても実力を発揮していく。自身初となる監督として挑んだ、シドニーオリンピックでは銀メダルに大きく貢献した。その功績が認められ埼玉県から“彩の国功労賞”が贈られた。
そして次こそはと金メダルを目指して出場したアテネオリンピック。外野の守備と積極的に足を使った攻撃が得意な“宇津木ジャパン”として健闘するも銅メダルとなった。オリンピックが終わった翌月の2004年9月に、日本代表監督からの退任を表明した。
“宇津木ジャパン”としてオリンピックを戦った宇津木妙子監督。惜しくも金メダル獲得とはならなかったが、その功績が認められ国際ソフトボール連盟の殿堂入りを果たす。これは日本人初の栄誉で、当時はメジャーではなかったソフトボールが脚光を浴びるきっかけにもなった。
また宇津木妙子監督を慕っていた、中国人の宇津木麗華選手の才能を開花させたことも話題に。名字が同じなのは養子となったためで、厳しいだけではない優しい一面も宇津木妙子監督の魅力だ。
ソフトボールの宇津木妙子監督の生い立ちや功績を紹介した。監督としてオリンピック制覇はかなわなかったが、日本代表は北京オリンピックで金メダルを獲得。宇津木妙子監督にガッツポーズを見せたことからもわかる通り、彼女の積み上げてきた実力と信頼が金メダルへとつながったのではないだろうか。世界野球ソフトボール連盟の理事に2021年まで就任しており、今後もソフトボールの発展に努める。