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ソフトボールの上野由岐子選手の生い立ちや功績をご紹介

2017 3/3 18:51
ソフトボール,ⒸShutterstock.com
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Photo by DarioZg/Shutterstock.com

2020年には東京オリンピックの開催が決定し、ソフトボールが正式種目に採用された。日本は前回の覇者として挑む大会となる。2008年北京オリンピックで金メダルに大きく貢献したピッチャーの上野由岐子選手の生い立ちや功績を紹介する。

ソフトボールのピッチャー上野由岐子選手の生い立ち

1982年の7月22日に福岡県福岡市で誕生した上野由岐子選手。幼少期から活発だった彼女は、小学校3年生のときにソフトボールを始める。当時から体格に恵まれており、最初からピッチャーとして大活躍。小学生のときには県大会で見事優勝する。

さらに中学校に進むと実力を伸ばし全国制覇。九州女子高等学校へと進学した上野由岐子選手は、世界ジュニア選手権でエースとして最年少で活躍、優勝に大きく貢献した。

ケガから奇跡的に回復した高校時代の上野由岐子選手

九州女子高等学校でも大活躍した上野由岐子選手は、2000年に開催されたシドニーオリンピックで代表候補に名前が挙がる。しかし体育の授業中に腰椎を骨折するケガを負ってしまいオリンピックを断念。それ以上に深刻だったのがケガの具合で、医者からはスポーツだけでなく日常生活にも支障をきたすかもしれないと宣告を受けた。

しかしその後の活躍は知られる通り、その強い精神力で奇跡的な回復を遂げた。

実業団でもすぐに活躍し代表入りした上野由岐子選手

ケガから奇跡的に回復した上野由岐子選手は九州女子高等学校を卒業し、ビックカメラ女子ソフトボール高崎(当時は日立高崎ソフトボール部)に入団。実業団でもすぐに才能を発揮する。史上初となる2試合連続完全試合を達成すると、2001年の新人王に選出され、オリンピック代表チームにも招集された。

そして翌年の2002年には世界大会でデビュー。当時のベテランだったピッチャー、石川多映子選手や増淵まり子選手に代わってエースとして活躍していく。

悔しさと自己管理の必要性を感じたアテネオリンピックの上野由岐子選手

アテネ五輪の出場権がかかる初の世界選手権となった中国戦では、緊張をものともせず完全試合を達成。実質エースとして挑んだアテネオリンピックだったが、開幕戦でオーストラリアにまさかの敗北。

しかし負ければ敗退が決まる中国との予選最終戦で、上野由岐子選手はオリンピック史上初の完全試合を達成。3位決定戦に勝てば決勝へと進むオーストラリアとの試合では、登板の機会を与えられず敗退し銅メダルに終わった。

当時の上野由岐子選手はまだ若手で、監督から信頼されなかったことが悔しかったと語っている。また大会中には風邪を引くなど体調を崩してしまった経験から、自己管理を強く意識するきっかけにもなった大会だった。

オリンピックで金メダル獲得に大きく貢献した上野由岐子選手

アテネオリンピックを経て、さらに成長した上野由岐子選手。実業団だけでなく世界選手権やアジア大会でも活躍を重ね、2007年には日本人で初となる1000奪三振を達成する。

自信を持って挑んだ北京オリンピック。準決勝のアメリカ戦と同日に開催された決勝進出決定戦のオーストラリア戦に続けて登板し活躍。翌日のアメリカとの決勝戦も先発し7回完投勝利、3試合の合計球数がなんと413球となり日本の金メダル獲得に大きく貢献した。

まとめ

オリンピック金メダリストとなった上野由岐子選手の生い立ちや功績を紹介した。世界最速といわれる121km/hのストレートと、コントロールが抜群な変化球も上野選手の魅力。2016年には通算200勝を達成し、ますます今後の活躍が楽しみな選手だ。