背番号7番といえば
背番号7番のサッカー選手と言えば誰を思い浮かべるだろうか。
日本国内で7番といえば、ガンバ大阪でも日本代表でも長きに渡って7番をつけた遠藤保仁選手や、中田英寿氏が有名だろう。
世界では、現在のアルゼンチン代表アンヘル・ディ・マリア選手や、スパルタク・モスクワでプレーするクインシー・プロメス選手。過去にはディルク・カイト氏や古くはマルク・オーフェルマルス氏がつけてきた。
最も有名な7番といえば、マンチェスター・ユナイテッドのクリスティアーノ・ロナウド選手やデビッド・ベッカム氏だろう。
クリスティアーノ・ロナウド選手が栄光の背番号である7番以外をつけるのは想像できない。
こうして比べてみると、日本と世界では7番の選手のキャラクターに違いがある事がわかる。
世界と日本で異なる7番のイメージ
日本で7番を付ける選手のイメージは司令塔タイプで、海外ではサイドアタッカータイプがほとんどだ。
クリスティアーノ・ロナウド選手も今でこそストライカーとしてプレーしているが、元々は右ウイングの選手だ。だからこそ、ポルトガルの英雄ルイス・フィーゴ氏がつけた番号を受け継いでおり、マンチェスター・ユナイテッドでも右サイドでプレーしたデビッド・ベッカム氏がつけた7番を引き継いだのだ。
アンヘル・ディ・マリア選手も中盤でプレーする機会も多くなったが、本来はサイドアタッカーである。そして3トップの伝統が根強いオランダで7番といえば右ウイングの番号となっている。
日本で7番と言えば「司令塔タイプの選手」というイメージを植え付ける先駆者となった中田氏は、古くから7番にこだわりを持っていた選手であり、プロ入り前のU-17日本代表などでは司令塔というよりも、ボールを受けるプレーを得意としていた。また、当時のU-17日本代表には、天才と呼ばれた財前恵一氏という司令塔がいた事もあった。
それでも中田氏が「先駆者」と言われるのは、彼が世界で活躍し見せたプレーなどに関わらず、元々世界的に7番に近い選手だったのだろう。
そして日本で7番をより司令塔として定着させた遠藤選手。彼が7番をつけたのはガンバ大阪に加入してからである。加入初年度の2001年は19番、2年目は30番だったが、完全にレギュラーとして定着していたため、マルセリーニョ・カリオカ氏が退団し空いたレギュラー番号7番をつける事になった。
遠藤選手は定着しているものの、7番はたまたま与えられた番号であり、こだわりは特に持っていない事を明言している。
フランスではさらに異なる7番のイメージ
世界的にはサイドアタッカーが付ける番号となっている7番だが、ヨーロッパの中でも一部の国は異なるイメージが付いている。その国とはフランスである。
近年のフランス代表ではアントワーヌ・グリーズマン選手が7番にこだわりを持ち、この番号をつけているが、彼は育成年代でスペインに渡っており、その影響が大きい。
またその前にフランス代表の7番として定着していたのはフランク・リベリー選手だったが、彼も7番を付けるようになったのはオリンピック・マルセイユに移籍してからだ。その後は大ブレイクを果たした7番を大切にするようになったが、それ以前のメスでは10番をつけてプレーしていた。
フランス代表の7番は彼らの前につけていたフランス代表選手の名前を見ると、その傾向は明らかだ。
まずフランス代表の7番として最も成功した選手といえるのが、ディディエ・デシャン氏だろう。フランス代表がワールドカップ初優勝を達成した際のキャプテンである。その後この背番号を引き継いだのはロベール・ピレス氏やクロード・マケレレ氏。つまりセンターハーフとしてプレーした選手がこの番号をつけていたのだ。
7番をセンターハーフの番号としている名古屋グランパス
7番をセンターハーフの番号としているフランスのサッカーを、日本で実践しているチームがある。そのチームとは名古屋グランパスだ。名古屋グランパスにはドラガン・ストイコビッチ氏がつけた10番が特別な番号となり、ホームスタジアムの豊田スタジアムでは、10番ゲートをストイコビッチ氏の愛称からピクシーゲートと名付けている。
長きに渡って、チームのゴールマウスを守り続けている楢崎正剛選手が付ける1番も特別な番号と言えるが、さらに特別な番号となっているのは7番。現在は田口泰士選手がつけ、その前は中村直志氏がつけた番号である。
名古屋グランパスの7番は、チームの中央でプレーするセンターハーフの選手がこれまで受け継いできた番号となっている。
フランスの文化を持ち込んだのは
名古屋グランパスにこのフランスの文化を持ち込んだのは、後にプレミアリーグアーセナルで長期政権を築くこととなるフランス人の名将アーセン・ベンゲル氏だった。
Jリーグで固定番号制度が始まったのは1997年。この2年前となる1995年からアーセン・ベンゲル氏は名古屋グランパスエイト(当時)を指揮していた。
ベンゲル氏が就任当初の名古屋グランパスエイト(当時)には、浅野哲也氏という日本代表経験を持つセンターハーフがいた。しかしベンゲル氏は浅野氏とコンビを組むセンターハーフの補強を希望し、母国フランスのASカンヌからフランク・デュリックス氏を獲得するのだ。デュリックス氏がつけた番号は7番。7番のデュリックス氏と8番の浅野氏によるセンターハーフコンビはチーム躍進の原動力となっていた。
その後デュリックス氏は退団し、クラブは新たなセンターハーフを獲得することになるのだが、デュリックス氏の後に加入したリカルジーニョ氏、バウド氏、ウリダ氏とセンターハーフを務めた選手がつけたのは7番であった。ベンゲル氏がクラブを去ってからも、監督がポルトガル人のカルロス・ケイロス氏や田中孝司氏、ブラジル人のジョアン・カルロス氏と変わっていってもこの伝統は受け継がれた。
そして、2003年に中村直志氏が日本人選手として初めて7番を引き継ぐと、チームの中央でプレーするセンターハーフとして躍動する。この番号が同じポジションの後継者である田口泰士選手に引き継がれたのだ。
チームを代表するセンターハーフの番号となった名古屋グランパスの7番のルーツは、アーセン・ベンゲル氏が持ち込んだフランスの文化にあった。