セレッソ大阪の特別な番号8番と20番
セレッソ大阪の特別な番号といえばやはり8番。森島寛晃氏にはじまり、香川真司選手、清武弘嗣選手、柿谷曜一朗選手と受け継いだ背番号8番は、セレッソ大阪サポーターでなくとも誰もが知る特別な番号だ。
しかしセレッソ大阪のホームゲームでは、この8番ともう1つ番号が大きく書かれたフラッグが掲げられている。その番号とは20番だ。セレッソ大阪にとって20番は8番と並んで特別な番号の1つとなっている。
しかし20番は、8番の様に常に特別な番号であったわけではない。1997年に固定番号制度が始まった際の初代20番、百武義成氏のJ1出場試合はキャリアを通じて24試合しかなく、その後20番をつけた橋口勝氏、宮川大輔氏も同様だ。
そんな20番を特別な番号としたのは、2002年から4代目20番となった西澤明訓氏。セレッソ大阪サポーターからは「アキ」の愛称で今なお親しまれている。
日本を代表するストライカー西澤明訓氏
サッカーの街、静岡県清水出身の西澤明訓氏は、水東高校時代から将来を有望視されるストライカーとして知られていた。いくつものクラブからオファーがあったが、最終的に地元清水エスパルスとセレッソ大阪が最終候補となり、1995年にセレッソ大阪に加入した。決め手となったのは1年間のオランダ留学だった。
実際にセレッソ大阪加入から半年後、1995年の夏にオランダのシーズンが開幕すると、2部のFCフォレンダムに期限付き移籍となりオランダで1シーズンプレーした。
帰国後は小柄な森島氏と、サイズだけでなくスケールの大きいプレーを見せる西澤氏とのデコボココンビでチームを牽引。2000年にはトルシエ監督率いる日本代表でブレイクした。
モロッコで行われたハッサン2世杯、フランス代表戦では森島氏と西澤氏のゴールで2-2の引き分けに持ち込んだ。しかしこの期間、西澤氏がつけていたのは背番号9番や10番であり、20番ではなかった。
2002年から20番に
西澤氏は2000年12月にスペイン1部のRCDエスパニョールに移籍。さらに2001年7月にはイングランドプレミアリーグに昇格したボルトン・ワンダラーズへと移籍する。
セレッソ大阪加入のきっかけがオランダ留学だったように、元々海外志向が強かったこともあって海外へと戦いの場を移したのだ。
だが、思うように出場機会をつかめず、2002年1月17日にセレッソ大阪に復帰する。この時、以前につけていた9番や10番は既に別の選手がつけていたため背番号は20番となったのだ。
ここから再びチームの中心選手として、森島氏と抜群のコンビネーションを発揮。2005年にリーグ首位で最終節を迎え、優勝まであと一歩のところまで迫るチーム不動のセンターフォワードとしてプレーした。
2002年に復帰してからの活躍で、西澤氏=20番となる。2007年にキャリアの最後は地元のクラブでということで清水エスパルスに移籍するが、J2で苦しむチームをJ1に戻すために、2009年に再びセレッソ大阪に復帰。
この2009年は古傷である足首の状態がかなり厳しく、プレー時間は少なかったがチームリーダーとしてチームを支えた。香川選手や乾選手のブレイクの影には西澤氏の存在があったのだ。
そしてチームのJ1復帰が決まった試合終了直後に、スタジアムのサポーターの前で現役引退を発表する。
酒本憲幸選手が受け継いだ20番
西澤氏の引退後20番は、高橋大輔氏が引き継ぎ、2013年〜2014年にかけては杉本健勇選手もこの番号を背負った。杉本選手は大きな期待を集めての20番だったが、2014年にクラブは混迷を極めJ2降格。
2015年からの2年間は玉田圭司選手もこの番号を背負った。
そして2017年。玉田選手が名古屋グランパスへ復帰したことで空き番号となった20番は、酒本憲幸選手が引き継ぐこととなった。酒本選手は2017年のリーグ戦出場は0。決して今のセレッソ大阪では主力選手ではない。
しかし、現在のチーム最古参でプロキャリアもセレッソ大阪一筋。チームの実質的なリーダーでもあり、まさに20番にうってつけの選手なのだ。
だからこそ、ルヴァンカップ決勝で柿谷選手は、「絶対一緒に優勝したかったから、一緒に戦ってもらおうと思った」と8番のユニフォームの下に酒本選手のユニフォームを来てプレーした。セレッソ大阪には8番とは違った形で受け継がれていく番号20番がある。