現役生活最後の2日間
2017年のシーズンをもってFC東京の背番号18番、石川直宏選手は18年の現役生活にピリオドをうった。
FC東京トップチームでのラストゲームとなったのは12月2日の明治安田生命J1リーグ第34節、FC東京対ガンバ大阪戦。石川選手にとって2年5ヶ月ぶりの先発復帰となったこの試合で57分間のプレーを披露した。
元チームメイトであり、この試合中にも何度かマッチアップをしていた今野泰幸選手も
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「ケガで長期間、出ていなかった人とは思えない」
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出典:サッカーキング
と衝撃を受けるほどのプレーだった。
現役最後の試合となったのは、オーバーエイジとして出場した翌12月3日の明治安田生命J3リーグ、FC東京U-23対セレッソ大阪U-23戦。駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場で行われ、石川選手のFC東京デビュー戦となったたこの試合で、83分から途中出場した。
小学校時代からお互いを知るセレッソ大阪の茂庭照幸選手も、オーバーエイジとして86分から出場。直接マッチアップする場面は無かったが、共にライバルとして公言している2人が対戦相手として最後のピッチに立つ姿は印象的だった。
横浜F・マリノスの下部組織で育った石川選手
小学校時代から
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「茶髪でサラサラヘアの、ちっちゃいけどすげえヤツがいる」
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出典:GOAL.com
と、有名だった石川選手はプロになる一番の近道として、横浜マリノスジュニアユース追浜(当時)から、横浜マリノスユースへと進む。
名門横浜マリノスの下部組織はプロへの近道であると同時に厳しさもあった。他の選手よりも成長が遅かった石川選手は、周りの選手に身体能力で圧倒されてしまう事が続く。
なんとか技術でカバーしようと反復練習を繰り返すものの、17歳の冬にはチームスタッフとの面接で
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「おまえはプロになれない」
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出典:日刊スポーツ
とも告げられた。
トップ下からサイドアタッカーへとコンバートされたことにも腐らず、持ち前の前向きな姿勢で受け止め練習を重ねた。そして高校卒業後は横浜F・マリノスのトップチームへの昇格を勝ち取るまでに成長したのだ。
ルーキーイヤーの4節にプロデビューを果たし、U-19・U-20日本代表にも選出されるなど、石川選手は年代別日本代表の中心選手となっていく。 その反面、チームでは徐々に出場機会を減らしていき、サブ組にも入れないという日々が続く。
活躍の場を求め移籍を決意した石川選手はチームに直訴し、プロ3年目の2002年4月にFC東京へ期限付き移籍となった。
電撃的だったFC東京への移籍
石川選手の当初の移籍先は、サンフレッチェ広島にほぼ決まっていた。しかし、石川選手が先方の監督と面談を希望していたことで最終決定には至っていなかった。
そんな中で迎えた4月22日、横浜F・マリノスとFC東京の練習試合が行われた。公式戦の出場機会が無い石川選手にとって、こういった練習試合こそがプレーできる場だった。
対戦相手であるFC東京の監督は原博実氏(現Jリーグ副理事長)。監督就任の前年、石川選手が10番をつけて出場していた2001年FIFAワールドユースを解説者として見ており、石川選手のことを高く評価していた。それだけに出場機会のほとんどない現状を惜しく感じていた。
ただ、FC東京には石川選手と同じポジションに佐藤由紀彦氏という絶対的な存在がいたため、原氏にとって必要な選手ではなかった。
しかし、この4月22日は全く状況が異なっていた。前日に(4月21日のFC東京対ベガルタ仙台戦)佐藤氏が大怪我を負い、FC東京は急遽右サイドアタッカーが必要な状況に追い込まれていたのだ。
練習試合で石川選手のプレーをみたFC東京は原氏からの相談を受けて、石川選手に即オファーを出した。翌日の4月23日。石川選手が「練習場や環境を見てみたいし、監督とも話をしてみたい」とのことで、FC東京のクラブハウスを訪れると、原氏は
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「今来たらすぐに使っちゃうよ」
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出典:GOAL.com
と石川選手を口説き、移籍が即決した。
4日後の4月27日に石川選手は、ヤマザキナビスコカップ清水エスパルス戦にFC東京の選手として先発出場を果たした。 わずか1週間に満たない期間の決断により、石川選手は15年間FC東京のユニフォームに袖を通し続けることになるのだ。
FC東京の18番
FC東京に加入した石川選手の背番号は36番。チームに最後に加わった選手として、最も大きな番号だった。
36番をつけた石川選手は、原氏が持ち込んだスペイン風フォーメーションの右サイドアタッカーとして大躍進をみせる。大きなストライドで右サイドをダイナミックに加速していくプレーは圧巻で、怪我で離脱していた佐藤氏が復帰してもポジションを譲らなかった。
翌年の背番号は横浜F・マリノス時代と同じ18番となった。横浜F・マリノスでは主力としてプレーしていたわけではなく、この18番も思い入れのある番号ではなかったが、石川選手は「番号と名前が一致する選手になりたい」との考えのもと、一貫してこの番号を背負い続けた。
2003年にFC東京のレジェンドであるアマラオ氏がチームを離れ、アマラオ氏が背負った11番を石川選手が次ぐべきだとの話しもあったが「FC東京の18は石川直宏」の思いを胸に、18番にこだわり続けた。
新たな18番に望むもの
2003年に日本代表に選出されると、アテネオリンピック出場、初選出のオールスターでMVPに輝くなど、日本を代表するサイドアタッカーとして実績を確かなものにしていく。
石川選手のプレーは海外にも知れ渡り、イタリアセリエA,トレヴィゾからオファーを受けるまでになる。
トレヴィゾの移籍は決定寸前まで行きながらもチームの成績がよくなかったことで、石川選手自身が断ることに。そして直後のリーグ戦第24節横浜F・マリノス戦で大怪我を負ってしまった。
この怪我の後から石川選手は、幾度も大怪我を負いチームを離脱してしまう。しかし、その度にチームに戻ってきて抜群のリーダーシップを発揮し、チームを牽引し続けた。
この諦めない姿勢が、チームやサポーターにとって特別な存在になっていった。18年間の現役生活と、FC東京での15年半で18番を特別な番号とした石川選手は
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「次に18番を着ける選手には、新たな18番像をつくってもらいたい。そういう強い気持を持って背負ってくれるなら、誰が着けてもいい。」
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出典:Number Web
と考えている。