第25回ルヴァンカップ優勝を果たしたセレッソ大阪
2017年11月4日。両者初タイトルをかけての一戦となった25回目のリーグカップ、YBCルヴァンカップ決勝。セレッソ大阪対川崎フロンターレの一戦は、セレッソ大阪が2-0で勝利し、クラブ史上初めてJリーグのタイトルを獲得した。
川崎フロンターレはヤマザキナビスコカップ時代も含めて4度目の決勝となったがまたもやタイトルに届かなかった。天皇杯でも2016年に準優勝、リーグ戦でもJ1で3度の2位、2ステージ制で行われた2016年の明治安田生命J1リーグファーストステージの2位も合わせると、8度目の2位となる。
セレッソ大阪もルヴァンカップのカップウィナーに輝くまで、タイトルまで後一歩に迫りながらも優勝を逃してきたが、ついにJリーグとして初めてのメジャータイトルを獲得したのだ。
1995年にJリーグに昇格したセレッソ大阪は、長らくタイトルを獲得できていないチームだったが、ついに、その悲劇にピリオドが打った。
試合を分けた開始47秒のゴール
決勝はまさに激戦となった。
この試合の大きな分岐点となったのは開始47秒で杉本健勇選手が決めた先制点だろう。戦前からボールを保持する川崎フロンターレに対してセレッソ大阪がどのような形で対抗するのかという部分が注目点だったが、川崎フロンターレのミスから産まれたセレッソ大阪の先制点はその傾向をよりはっきりとさせた。セレッソ大阪がはっきりと守備に専念する事ができたのだ。
直近の直接対決では川崎フロンターレが5-1と大勝していたが、この試合はリーグ戦での状況から前がかりになったセレッソ大阪の背後をとる形で得点を重ねたものだった。たった1試合で全てが決まるこの決勝では、セレッソ大阪が早い時間に先制した事で、その時とは全く異なる状況となったのである。
狙い通りの攻撃ができていなかった川崎フロンターレ
先制点により、攻める川崎フロンターレと守るセレッソ大阪という構図がはっきりとし、試合は一方的に川崎フロンターレが攻め込んでいるように見えていた。しかし、川崎フロンターレのフィニッシュシーンをみると実はそうではなかった事がわかる。
川崎フロンターレはボールを持って押し込む事はできていたが、得意の形でフィニッシュまで持ち込む事はできていなかったのだ。川崎フロンターレはリーグ戦でも第31節終了時点で得点数は1位だ。しかしシュート数では5位。つまり、シュート数に対して得点数が多いチームなのだ。
これは、決定力が高いと言い換える事ができるかもしれないが、そんな単純な話ではない。この数字は川崎フロンターレの戦い方を示したものだ。
ここからわかるのは、川崎フロンターレはスルーパスに抜け出すなど、シュートが決まりやすいチャンスを数多く作るチームであるということ。そうしたチャンスを数多くつくるからこそ、チームとしての決定力が高くなるのだ。
この試合でスペースを消して守るセレッソ大阪に対して、川崎フロンターレはそのようなフィニッシュシーンをあまり作る事ができなかった。前半25分の三好選手からの折り返しを小林選手が狙った場面ではヨニッチ選手にブロックされ、前半43分の中村憲剛選手のシュートは枠を外れた。
後半11分に小林選手が放ったオーバーヘッドシュートは、決まれば素晴らしいゴールとなるのだが、そうそう決まるものではない。
打開しようとバランスを崩して前線の選手を投入するも攻撃を改善できないままだった。セレッソ大阪がカウンターで試合を決める2点目を決めたのも必然だったのだろう。
初タイトルに導いた立役者、尹晶煥監督
悲願のJリーグ初タイトルを獲得したセレッソ大阪は、これまで浮き沈みを繰り返してきた。
その最たる出来事が、2013年に柿谷選手らの活躍でAFCチャンピオンズリーグ2014の出場権を獲得し、さらにフォルラン選手らを獲得したことで期待が高まっていたものの、翌2014年にJ2降格となったことだろう。
J2でも噛み合わない戦いを続け、圧倒的な戦力を保持しながらも1年でJ1復帰は叶わなかった。そして2年目にようやくJ1昇格プレーオフを勝ち抜いてJ1復帰を果たしている。
そんなチームが初タイトルを獲得するまでにいたったのは、尹晶煥監督の功績が非常に大きい。3部練習を行うなど鬼軍曹の様なイメージを持たれる事もあるが、練習では選手と一緒になってボールを蹴る事も多い選手との距離が近い監督だ。
セレッソ大阪の躍進は、そんな尹晶煥監督がグループによるチームの守備戦術を整理し、チームに一体感が産まれたためだ。
また、このルヴァンカップでは36人もの選手を起用する積極的なターンオーバーを行い勝ち進んだ事も、チームの一体感をより高めた。まさに尹晶煥監督の采配がピタリとハマったといえるだろう。
尹晶煥監督と森島寛晃氏
尹晶煥監督には川崎フロンターレとの間に因縁があった。
尹晶煥氏は現役時代の2000年〜2002年までセレッソ大阪でプレー。2000年のファーストステージ最終節、勝てばステージ優勝という一戦でも背番号6番をつけて先発フル出場を果たしていた。セレッソ大阪がJリーグ昇格後、最初にタイトルに近づいた試合である。
その対戦相手は、当時J1昇格したばかりで最下位に低迷していた川崎フロンターレだった。首位と最下位の対戦という事で、セレッソ大阪の優勝は間違いなしと言われていたのだ。
しかし結果は1-2で延長Vゴール負け。セレッソ大阪はつかみかけた初タイトルを逃した。こういった歴史を踏まえると、セレッソ大阪の初タイトルが川崎フロンターレ戦だった事はなにか運命的なものを感じさせる。
優勝カップを受け取ったあとにピッチ上で何度も繰り返されたセレモニーで、最もセレッソサポーター湧いたのは、当時の背番号6番尹晶煥監督と、当時の背番号8番森島寛晃氏(現チーム統括部 フットボールオペレーショングループ 部長)がカップを掲げるシーンだった。