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アルゼンチンからヨーロッパ、背番号で見る清水エスパルスの柔軟性

2017 11/10 12:24Aki
オレンジ サッカー スタジアム
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清水エスパルス誕生

Jリーグ創設時から参加する10クラブ、通称”オリジナル10”の1チームである清水エスパルス。 このクラブは、他のクラブとは異なる経緯を持って設立されたクラブである。
Jリーグ設立にあたって参加を表明したクラブのほとんどは、日本サッカーリーグ1部に参加していた実績ある企業チームだ。目立った実績が無いクラブと驚かれた鹿島アントラーズですら、日本サッカーリーグ2部に所属していた。
しかし後に清水エスパルスとしてJリーグに参加することとなる清水FCは、静岡県清水市(当時)の選抜チーム少年サッカークラブとして存在していた。しかし実質的には、まだチームが無い状態だった。

Jリーグ開幕にあたり、当時日本一のサッカーどころだった清水市(当時)をホームタウンとしたチームが欲しいという考えがあった。そこで、同じ静岡県でJリーグ参加を希望していたヤマハサッカー部(現在のジュビロ磐田)が清水と一緒になって新しいクラブを作るのはどうかという働きかけもあったのだが、結果的には両者共に単独での参加を希望した。
リーグに参加するチームが無かった清水FCだが、清水市(当時)には高校総体のために作られたスタジアム”日本平運動公園球技場”があった。
これが決め手となり、清水FCのJリーグ参加が具体的になると設立に向かって一気に加速する。
地元企業などが出資し運営母体が固まると「清水東三羽烏」と呼ばれ、地元清水東高校サッカー部出身のスター選手、大榎克己氏、長谷川健太氏、堀池巧氏がチームに参加することになった。
こうして清水エスパルスが誕生することとなったのである。

独自の文化をもったサッカークラブ

それぞれが別のクラブで活躍していた地元出身選手を中心に、集める形で作られた清水エスパルス。 こういった背景を持つことから、清水エスパルスは文化的背景が他のクラブとは少し異なるチームだった。

それは、このクラブは企業チームが前身であるというような過去の背景を持っていないことと、ホームタウンが多くの選手を輩出してきた日本一のサッカーどころである清水という点、当時所属したのは、高校などで実績をあげてきた選手たちということだった。

清水エスパルスの初代監督は、ブラジル人のジュリオエスピノーザ氏だ。そしてJリーグ開幕にあたってプレーヤーとしてはもちろん、監督としても後にブラジル代表の監督を務めるなど抜群の実績をもっていたブラジル人のエメルソン・レオン氏を招聘。
さらにレオン氏に続いて、ブラジル代表で一時代を築く名選手だったロベルト・リベリーノ氏とブラジル人ビッグネームを相次いて監督に就任させた。これによって、少なからずブラジルサッカーの影響を受けていると言えるだろう。

他と比較すると、Jリーグの他チームは、設立初期に就任する監督たちの出身国サッカー文化に色濃く影響を受けていることが多い。背番号とポジションの関係から見るとその影響は顕著だ。

しかし清水エスパルスの背番号とポジションを見ていくと、他チームに見られるように初期の監督の影響を長く受け継ぐことなく、その時々の監督に合わせて変化してきたことがわかる。

アルゼンチン式の背番号

Jリーグが固定番号制となった1997年(それまでは試合ごとに背番号を付けていた)。清水エスパルスの監督は、アルゼンチン代表の名選手として世界的に活躍したオズワルド・アルディレス氏が就任していた。

なのでこの当時の背番号はアルゼンチン式だ。
諸外国のサッカーにおいて背番号は選手のポジションを表すものであり、その中で世界各地で独自に進化していったという歴史がある。
つまり1997年当時の清水エスパルスは、アルゼンチンで作られたサッカー文化に基づく背番号の付け方となっていたのだ。
それを象徴するのが「2番」「4番」「5番」「6番」の背番号をつけた選手だ。

「2番」をつけたのはセンターバックの斉藤俊秀氏。ブラジルで「2番」は右サイドバックの番号だが、アルゼンチンではセンターバックの番号である。
そして「4番」をつけたのは右サイドバックの堀池巧氏。「5番」は守備的ミッドフィルダーのサントス氏が背負い、「6番」は当時ディフェンダーとしてもプレーしていた大榎克己氏が背負った。
これは、現在のアルゼンチン代表メンバーの背番号をみて同じ傾向だと気がつくかと思うが、アルゼンチンで「4番」といえば、かつてサネッティ氏がつけたように右サイドバックの番号だ。
「5番」はレドンドに代表されるような守備的ミッドフィルダーがつける番号で、「6番」はオスカー・ルジェリ氏やサムエル氏の様にディフェンダーがつける番号だったのだ。

アルディレス退任後、背番号はヨーロッパ的な番号に変化

アルディレス氏が退任し、その後イングランド人のスティーブ・ペリマン氏、さらに旧ユーゴスラビア出身のゼムノビッチ・ズドラヴコ氏が監督に就任すると、ヨーロッパの文化をもった背番号へと変化することとなる。

その象徴的な1つが、「4番」を右サイドバックの堀池氏から、守備的ミッドフィルダーの戸田和幸選手が背負うようになったことだ。
ヨーロッパで「4番」といえば、FCバルセロナやスペイン代表で活躍したジョゼップ・グアルディオラ氏や、イングランド代表でスティーブン・ジェラード氏がつけていた、守備的ミッドフィルダーの番号である。
もちろん主力選手の多くはアルディレス氏在籍当時から同じ番号背負い続けていたため、アルゼンチン式の背番号となっている。しかし、堀池氏が退団して空き番号となった「4番」は、それまでの様にアルゼンチン式となる右サイドバックの選手ではなく、ヨーロッパ式の守備的ミッドフィルダーが背負うことになったのだ。

独自の文化へと進化していく背番号

右サイドバックの番号から守備的ミッドフィルダーの番号へと変わった4番は一例に過ぎない。
他にも守備的ミッドフィルダーの番号だった5番は、2006年の岩下敬輔選手をきっかけにセンターバックの番号へと変化していたり、センターバックの番号だった2番は2017年現在右サイドバックとして見られている清水航平選手が受け継いでいる。
清水エスパルスは伝統を持たなかったからこそ、番号とポジションの関係をその時々の監督により、柔軟に変化させてきたのだろう。
しかしそんな中でも、例えば大榎克己氏が背負った6番は、その後杉山浩太選手へと受け継がれたり、伊東輝悦選手が背負った7番は本田拓也選手を経て、現在は六平光成選手と、チームの伝統が出来ている部分もある。

こうした清水エスパルスにおける背番号の変化の歴史を追っていくと、様々な国や地域の影響を受け柔軟に変化してきた歴史をもつことで、逆に清水エスパルス独自の文化を生み出す事につながっているのかもしれない。

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