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サンフレッチェ広島の背番号から見るヨーロッパサッカーとの関係

2017 10/13 10:05Aki
サンフレッチェ広島
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司令塔タイプの選手がほとんどつけていないサンフレッチェ広島の10番

Jリーグオリジナル10の1つであるサンフレッチェ広島。このクラブの背番号には、創世記から他のクラブとの違いが見られた。 その代表的なものが背番号10番だ。
背番号10番といえばサッカーのエースナンバーとして知られているが、日本では司令塔タイプのミッドフィールダーが好んで付ける番号となっていた。

そのためJリーグで10番といえば、古くは木村和司氏に始まり、ラモス瑠偉氏、澤登正朗氏、中村俊輔選手。近年では柴崎岳選手がスペイン移籍前に、ついに鹿島アントラーズの10番を背負ったと話題になり、若手司令塔の代表格でもある大島僚太選手も川崎フロンターレで10番を背負っている。

しかしサンフレッチェ広島では、当時は変動番号制であったが10番を主につけていたのはセンターフォワードの高木琢也氏だった。1997年に固定番号制となってからも、久保竜彦氏やウェズレイ氏などストライカーがこの番号を選んだ。
司令塔タイプとして10番をつけたのは、2008年に現浦和レッズの柏木陽介選手が初めてで、その後、高萩洋次郎選手や、テクニカルな外国人選手もつけたが、2016年には再びストライカーの浅野拓磨選手が10番を背負っている。

他とは異なる傾向を持つサンフレッチェ広島の10番だが、それはこれまでクラブを率いた指導者達の影響によるものである。

マツダサッカー部時代から独自の路線を選択

サンフレッチェ広島の前身となったのは、1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部だ。後にマツダサッカー部となるこのチームは、広島がサッカーの盛んな地域だった事もあって、古くから強豪チームとして知られていた。

しかし、1980年代に入ると低迷期を迎える。この時にコーチとして招聘したのが、後に日本代表監督となるハンス・オフト氏だ。オランダユース代表のコーチを務めていた後に、ヤマハ発動機サッカー部(現在のジュビロ磐田)で短期コーチ務めた後というタイミングだった。
当時の日本サッカー界はドイツとの関係を深くしており、ブラジル出身者が外国籍選手として数多くプレーしていたのだが、マツダサッカー部はドイツ人でもブラジル人でもなく、オランダ人であるハンス・オフト氏をクラブ強化の為に選んだのだ。

イングランド人監督が率いたクラブ創世記

Jリーグ開幕に際してマツダサッカー部は、サンフレッチェ広島と名を変える事になる。サンフレッチェ広島の初代監督に就任したのは、イングランド人のスチュアート・バクスター氏だ。

サンフレッチェ広島監督就任前のバクスター氏は、スウェーデンのクラブでキャリアを重ねていたが、日本サッカー界では全く無名の存在だった。サンフレッチェ広島がバクスター氏を知ったのは、Jリーグ開幕を前にしてクラブが行った北欧遠征がきっかけだった。
バクスター氏率いるハルムスタッズBKと行った練習試合で、組織的なプレーを見せるチームのクオリティの高さを感じとったクラブは、バクスター氏の招聘を決めたのだ。

サンフレッチェ広島が10番をセンターフォワードの選手に与える様になったのは、このバクスター氏の影響が大きい。イングランドでも10番はエースナンバーなのだが、この番号を付けるのは司令塔ではなくセンターフォワードの選手であった事から、ごく自然にサンフレッチェ広島ではセンターフォワードが10番を付けるようになった。

バクスター氏率いるサンフレッチェ広島は規律を重んじる組織的なサッカーで、1994年の第1ステージ優勝を果たすこととなる。

ちなみにJリーグで初めてセンターハーフを2枚並べた(ダブルボランチ)4-4-2を採用したのは、バクスター監督率いるサンフレッチェ広島だと言われている。

ヨーロッパの理論を積み重ねたサッカークラブ

バクスター氏が去った1995年、サンフレッチェ広島は次にオランダ人監督であるビム・ヤンセン氏を招聘する。ヤンセン氏はリヌス・ミケルス氏率いるオランダ代表でヨハン・クライフ氏ラとともにトータルフットボールを実現させた人物である。
それまでイングランド式の4-4-2で戦っていたチームがオランダ式の3-4-3に変更した事で、戦術的に未成熟だった日本人選手がついていけず、実績としては天皇杯の決勝進出のみと少し寂しいものとなった。しかし、クラブとしてヨーロッパのサッカーを継続させた事は大きかった。

ヤンセン氏退任後は、やはりヨーロッパでの経験を持つスコットランド人のエディ・トムソン氏を招聘。その後はロシア人となるヴァレリー・ニポムニシ氏を招聘している。ヴァレリー氏退任後の2002年に招聘したガジ・ガジエフ氏だった。
徹底的というほどヨーロッパの流れを続けたサンフレッチェ広島は、Jリーグの他のチームには無い、ヨーロッパの理論に基づくサッカーを行うチームという特徴を持たせることになった。

ミシャシステムの完成

ガジエフ氏退任後はチームの再建に時間がかかり日本人監督が続くこととなるが、次に招聘した外国人監督は2006年シーズン途中に招聘したミハイロ・ペトロヴィッチ氏だった。
ペトロヴィッチ氏が率いるチームはなんとか降格危機は回避するものの、翌年にはJ2降格となるなど一筋縄ではいかなかった。

しかし、ヨーロッパの戦術的なサッカーを積み重ねてきたクラブは、ペトロヴィッチ監督の代名詞となる特徴的な戦術「ミシャシステム」を完成させた。
Jリーグファンなら誰もが知る「ミシャシステム」。この戦術は近年のヨーロッパで見られる戦術のトレンドと考え方自体は非常に近いものだった。

大きな成果を挙げるのはペトロヴィッチ監督退任後、森保一氏が監督になってからだが、極東アジアの小さな島国で作り上げられた戦術としては異例のものだったと言える。
それが実現できたのはこれまでクラブとして、戦術的なヨーロッパのサッカーを積み重ねてきたからこそだ。

原点回帰を選択した2017年

2017年に成績低迷を受け、森保氏を解任したサンフレッチェ広島は、スウェーデン人のヤン・ヨンソン氏を新監督として招聘している。
このヤン・ヨンソン氏。実は選手としても、コーチとしてもサンフレッチェ広島に所属した事がある。このクラブにとって大きな影響をあたえた、バクスター氏の右腕として働いていた人物である。

バクスター氏から独立した後は、バクスター氏同様に北欧でキャリアを重ねてきたヨンソン氏。 サンフレッチェ広島に就任後は、これまでの「ミシャシステム」は捨てることとなったが、やはりヨーロッパの規律を重んじる組織的なサッカーを見せている。

2017年9月現在は、まだJ1残留争いの真っ只中にあり、最終的に残留に成功するか、それとも降格となってしまうかはまだわからない。しかし、これまで辿ってきたクラブの歴史を考えると、最適とも言える人物なのかもしれない。