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名古屋グランパスの中央でプレーする選手が付ける背番号7番

2017 10/13 10:05Aki
サッカーボール
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名古屋グランパスにおける特別な番号

Jリーグオリジナル10の1つである名古屋グランパス。 その長い歴史を表すかのように、このクラブには特別な意味を持つ背番号はいくつかある。

代表的なものが、ドラガン・ストイコビッチ氏がつけた10番だ。選手としてだけでなく監督としても活躍を見せ、2017年現在これまでクラブが獲得してきた主要タイトルの全てに絡んでいるストイコビッチ氏はまさにクラブのレジェンドであり、彼が背負った10番からホームスタジアムである豊田スタジアムの10番ゲートは「ピクシー・ゲート」と名付けられている。
また1999年にクラブが消滅した横浜フリューゲルスから加入し、2017年現在でもゴールマウスを守り続けている守護神、楢崎正剛選手のつける1番も特別な番号といえるだろう。

ただしその2つの背番号は「引き継がれてきた」という印象はそれほど強くない。 名古屋グランパスにおいて「引き継がれてきた」のは背番号7番だ。

Jリーグ創世記に名古屋グランパスエイトの7番をつけた米倉誠氏

Jリーグ開幕当初、名古屋グランパスエイト(当時)はあまり好成績を残す事ができず、かなり苦しいシーズンを過ごしていた。そんな中、評価が高かったのは中盤に入る米倉誠氏と浅野哲也氏の2人だった。
浅野氏はJリーグ開幕前から日本代表に選出されていたトヨタ自動車サッカー部時代からのチームを代表する選手だったが、NKK(元日本鋼管)サッカー部からトヨタ自動車サッカー部へと移籍し、Jリーグ開幕を迎えた米倉氏は最初から有名選手という事はなかった。

変動番号制だった当時、7番をつけた米倉氏は名古屋グランパスエイト(当時)でのプレーを評価され1994年には日本代表にも初招集される。スルーパスを得意としながらも、それだけでなく幅広いプレーができる米倉氏は、苦しむチームの中で評価を高めた選手の1人だった。

外国籍のセンターハーフがつける背番号7番

チームにとって最初の大きな転機となったのは1995年。後にイングランドのアーセナルで長期政権を築く事となるアーセン・ベンゲル氏が名古屋グランパスエイト(当時)の監督に就任した事だ。
ベンゲル氏は当時フランスのASカンヌでキャプテンとしてチームを牽引するセンターハーフだった、フランク・デュリックス氏を連れてくる事に成功していた。当時の日本ではなかなか見る事ができなかった、攻守に高いレベルでプレーするヨーロッパ型のセンターハーフとしてデュリックス氏は背番号7番をつけ大活躍を見せてくれたのだ。

しかし、ベンゲル氏がアーセナル監督のオファーを受けて退団するとデュリックス氏も退団してしまう。 後にマンチェスター・ユナイテッドのコーチとして、さらにはレアル・マドリードの監督も務めたカルロス・ケイロス氏が監督に就任した1997年はブラジル人ボランチ、リカルジーニョ氏を獲得し7番をつけた。
リカルジーニョ氏は後にプレーしたベルマーレ平塚(当時)や川崎フロンターレでは10番をつけるほど技術の高い選手だったが、日本のサッカーに適応することができず、わずか1年でチームを去る事となった。

その後7番は、ブラジル出身のバウド氏、さらにアヤックスの下部組織出身で、セビージャでもプレーしたウリダ氏に引き継がれる。ウリダ氏はチームの適応に時間がかかったものの、1997年からは完全に主力としてポジションを掴む。

当時の名古屋グランパスエイト(当時)で7番といえば、外国席を持つセンターハーフが付ける番号として定着していった。

中村直志氏が大きくした背番号7番

2003年、ウリダ氏から背番号7番を引き継いだのは中村直志氏だった。固定番号制となってから初めて日本人選手として7番をつけた中村直志氏は、本来はピクシー(ストイコビッチ氏)の後継者とも呼ばれ攻撃的ミッドフィルダーが本来のポジションだったが、当時のチーム事情により様々なポジションを務めることとなっていた。

そんな中村直志氏だったが、ドラガン・ストイコビッチ氏が名古屋グランパスの監督に就任すると本格的に守備的ミッドフィールダーへとコンバートされる。
このコンバートによりテクニックに合わせてもう1つの特徴であった運動量という才能が開花し、ハードワークで中盤を締める選手として評価を高め日本代表からも声がかかるようになっていった。

結局日本代表に定着することはできなかったが、中村直志氏はハードワークができるプレーメーカー型の守備的ミッドフィールダーとして知られることとなり、チームの司令塔としてクラブ史上初となるリーグ優勝にも大きく貢献した。決して目立つ選手ではなかったが、長短のパスで攻撃を組み立てる中心選手としてサポーターからも愛された。

名古屋グランパスの7番はストイコビッチ氏により再びセンターハーフのポジションで輝くこととなり、中村直志氏の活躍で特別な番号となっていったのだ。

田口泰士選手へと引き継がれた背番号7番

中村直志氏が引退した2015年、背番号7番は田口泰士選手へと引き継がれた。
この引き継ぎは大方の予想通りだった。何より中村直志氏が「(田口)泰士がつけてくれたらうれしいな」と希望したものでもあったのだ。

田口選手は流経大柏高校で2年生時には高円宮杯全日本ユース選手権と全国高等学校サッカー選手権大会での優勝に貢献し、大きな期待を集めて名古屋グランパスに加入した攻撃的ミッドフィルダーだ。
しかしプロ入り後はなかなか出場機会をつかめずにいたが、2012年の中断期間に守備的ミッドフィールダーへとコンバートされてからはポジションを確保するようになっていた。

守備的ミッドフィールダーへのコンバート当初はプレーメーカーとしてのプレーは抜群ながら、このポジションでの経験がまだ浅い事から、守備的な部分では不安定な部分も見せていた。
この守備的な部分での成長を助けたのが、このポジションで多くの経験を積みベテランとなった中村直志氏だった。
田口選手はいわば中村直志氏の隣でプレーすることで成長してきた、師弟関係にあるともいえる2人だったのだ。背番号7番が継承された事はサポーターも含めたチームに関わる多くの人が納得できるものであった。

7番をつける田口選手にかかる大きな期待

田口選手は背番号7番をつけた1年目の2015年は怪我のため多くの試合に出場できず、また2年目となった2016年はキャプテンにもなり、主力として戦いながらもチームの混乱を止める事ができずJ2降格と、本領を発揮することができなかった。
2017年開幕前にはJ1の多くの強豪クラブからオファーを受けたものの、田口選手は名古屋グランパスへの残留を決断する。

2017年の名古屋グランパスは、風間八宏氏が監督に就任し、風間流ともいえる特殊なサッカーをすることになり、数多くの選手が入れ替わる事となった。最初は戸惑いがあったものの、徐々に風間流サッカーがフィットしている。その中心には勿論、背番号7番をつけた田口選手だ。
クラブ史上初のJ2で、なかなか思うように勝ち点を積み上げる事ができていないが、少しづつ改善の兆しは見えてきている。

名古屋グランパスが風間監督が率いた2016年までの川崎フロンターレのような強さを見せられるかどうかは、背番号7番を背負う司令塔、田口選手のプレーが大きなポイントとなりそうだ。