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特別な意味を持つ、徳島ヴォルティスの背番号11番

2017 10/13 10:05Aki
ユニホーム,背番号11番
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未来のスターが在籍した過去を持つ徳島ヴォルティス

大塚製薬サッカー部をルーツに持つ徳島ヴォルティス。Jリーグのクラブ増加に伴って四国勢としては1番手となる2005年からJ2に参入し、2014年に四国勢では唯一となるJ1昇格を果たしており、四国で最も成功をしているJクラブと言っても良いだろう。(2017年現在)

またこのクラブには、若き日の柿谷曜一朗選手や丹羽大輝選手、ドゥンビア選手がいた。2008年に日本代表とコートジボワール代表の対戦が日本で行われる事となり、たまたま日本国内にいるコートジボワール人としてドゥンビア選手は代表チームに招集された事になった。
その後、代表チームに定着するだけでなく、ロシアのCSKAモスクワや、ポルトガルのスポルティングCPでUEFAチャンピオンズリーグ出場する。このように、大きくステップアップする選手が在籍したチームなのだ。

しかし、徳島ヴォルティスにおける特別な背番号は、柿谷選手のつけた13番でも、丹羽選手がつけた17番でも、ドゥンビア選手がつけた10番でもない。
徳島ヴォルティスにはそれ以上に特別な選手がつけた番号があり、クラブやサポーターにとって今でも大切な番号となっているのだ。

徳島の特別な番号11番

徳島ヴォルティスにとって特別な番号となっているのは11番である。日本国内で11番といえば「キング・カズ」こと三浦知良選手を指す番号だが、ここ徳島では違う。
11番といえば片岡功二氏の事であり、彼がつけた11番は徳島ヴォルティスにとって特別な番号として、チームのエース格の選手が付けるようになった番号なのである。

2009年に現役を引退した片岡功二氏は、Jリーグファンの中でも全国的な知名度は高くない選手だ。
だが徳島での知名度は抜群なのだ。徳島ヴォルティスの歴史は片岡功二氏抜きでは語ることができないほど、クラブにとって欠かす事のできない大切な選手であり、サポーターにとっても「ミスター・ヴォルティス」といえば片岡功二氏なのだ。

J2加入を決めた大塚製薬サッカー部の中心選手片岡功二氏

片岡功二氏が徳島ヴォルティスの前身となる大塚製薬サッカー部に加入したのは1996年のことだ。
当時の大塚製薬サッカー部は1992年に発足するJリーグへの参加は見送っていたが、同年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)1部に参加していた。Jリーグ開幕後、地域ではJリーグ加盟の機運が高まっていたが資金面の問題もあり断念したのだ。しかしチーム名だけは、1995年から大塚FCヴォルティス徳島としていた。

片岡氏が加入して3年目の1999年にJ2が始まる事となるが、そこにも大塚FCヴォルティス徳島は不参加だった。再びチーム名を大塚製薬サッカー部に戻し、この年から体制が変わり始まった日本フットボールリーグ(JFL)にアマチュアチームとして参加していた。
J2参加チームが抜けた1999年以降のJFLでは、大塚製薬サッカー部は常に上位を争うチームとなっていく。片岡氏はこの1999年から背番号を11番とし、左サイドのアタッカーとしてチームの中心選手として活躍するようになっていた。

そんな中、2003年に「徳島にJリーグクラブを作る」との公約を掲げた飯泉嘉門氏が徳島県知事に就任した。
片岡氏らを中心に2003年、2004年とJFL2連覇を達成した大塚製薬サッカー部は、成績面でのJ2参加資格となる2位以内を決め、2005年から再び徳島ヴォルティスと名を改め、J2に参加することとなる。2004年には片岡氏を始め6人がJFLベストイレブンに選出されている。

徳島ヴォルティスの初代11番

徳島ヴォルティスがJ2に加入した2005年、セレッソ大阪や柏レイソルなどでプレーした羽地登志晃氏、鹿島アントラーズやベガルタ仙台などでプレーした小林康剛氏、横浜マリノス(当時)などでプレーした大森健作氏などチームは大型補強を敢行する。
補強選手たちも活躍を見せるが、中心となったのは片岡氏ら大塚製薬サッカー部の選手だった。大塚製薬サッカー部時代から引き続き11番をつけた片岡選手は、小柄ながらキレのあるドリブルと、闘争心溢れるプレーで数多くのチャンスを演出する。チームを引っ張るプレーを見せ、2006年にはキャプテンも務めた。

しかしJ2加入後のチームの成績は、それまでのJFL2連覇という栄光とは異なり下位を低迷する。プロの壁にぶち当たっていた。
そんな中でも、熱いプレーでチームを鼓舞し続けたのは片岡氏だ。Jリーグ入りに向けての活躍で元々人気のある選手だったが、チームが苦しい中でも熱いプレーを見せ続ける片岡氏は、いつしか「ミスター・ヴォルティス」として誰もが認める存在となっていった。

津田知宏選手が引き継いだ11番

片岡氏が2009年シーズン終了後に引退すると、翌2010年から11番を引き継いだのはこの年に名古屋グランパスから加入した津田知宏選手だった。
津田選手は、名古屋グランパスではスーパーサブとして起用されていたが、出場期間を求め期限付きで徳島ヴォルティスへと加入していた。そして加入するやいなや抜群のスピードと突破力でゴールを重ねエースとなった。

しかし翌2011年に津田選手は大きな転機を迎える。期限付き移籍を延長して徳島ヴォルティスに残った津田選手は、当然エースとしてゴールを量産することを望まれていた。左サイドに入る柿谷選手も献身的な動きを見せ、チームは昇格争いを戦っていた。
しかし津田選手のゴールが伸びない。前年に16得点を決めた津田選手には当然それ以上のゴールを期待されていたが、それ以上に自分自身にプレッシャーを掛け過ぎてしまっていたのだ。その結果ゴール数は前年の半分以下となる7得点に終わり、最終節にまでもつれたJ1昇格争いに敗れ、昇格することができなかった。

これをきっかけに2012年から徳島ヴォルティスへの完全移籍を決めた津田選手が再びJ1昇格のチャンスを掴んだのは2014年だった。
J1昇格プレーオフ決勝へと進出した徳島ヴォルティスは、1-0とリードした前半終了間際試合を決定づける2点目を決める。 決めたのは11番をつけたエース津田選手だった。

新11番、島屋八徳選手にかかる期待

津田選手がチームを去った後、11番はキム・キョンジュン選手を経て、2017年はレノファ山口FCから加入した島屋八徳選手が背負っている。
スペイン人のリカルド・ロドリゲス監督が新たに就任し、魅力的なサッカーを見せている徳島ヴォルティス。島屋選手もレノファ山口FCで見せた様々なポジションでプレーできるユーティリティー性の高さと高い得点力をそのまま披露し、チームの中心選手として定着している。

しかしチームがJ1昇格・復帰する為にはもう後一歩足りない。それは11番を背負う島屋選手の更なる活躍である。
JFLからJ2へ、J2からJ1へ。2度の昇格を経験している徳島ヴォルティスだが、その際には常に11番をつけた選手の活躍があったのだから。