千葉氏から奥埜選手へ受け継がれたベガルタ仙台の7番が持つストーリー|【SPAIA】スパイア

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千葉氏から奥埜選手へ受け継がれたベガルタ仙台の7番が持つストーリー


バンディエラと呼ばれる存在

サッカーにはバンディエラと呼ばれるプレーヤーがいるのをご存知だろうか。
バンディエラとはイタリア語で「旗頭」という意味の言葉で、簡単に言えばチームのシンボルである選手の事だ。しかし今やこの言葉はそれ以上の意味を持つようになり、1つのチームに長く在籍し、活躍し続け、チームと共に成長してきたチームの生え抜き選手を指す言葉となっており、いわばレジェンド以上の存在にのみ与えられる称号となっている。
かつてベガルタ仙台には、千葉直樹選手というバンディエラがいた。背番号7番を背負い、チームを引っ張り続けた特別な存在の選手だった。

ベガルタ仙台の前身、ブランメル仙台

ベガルタ仙台が誕生したのは1999年で、この年から始まったJ2開幕に合わせてチーム名が改められた。千葉氏がチームに加入したのはその3年前となる1996年だった。千葉氏は、地元仙台市出身で東北学院高校を卒業後、当時JFLで戦っていたブランメル仙台に加入した。当時の同期には、後にジェフ千葉やサンフレッチェ広島でプレーした中島浩司氏がいる。
ブランメル仙台とは、東北電力サッカー部が母体となりJリーグ加入を目指したチームであり、千葉氏が加入した1996年はチームにとって2シーズン目の年であった。前年にリーグ準会員として承認されており、Jリーグ加入に向けて大きく動き出したシーズンだった。
その為、この年からジェフユナイテッド市原(当時)でプレーした元ドイツ代表ピエール・リトバルスキー氏も前年に引退から現役復帰し加入している。さらに1994年のJリーグ得点王であるオッツェことフランク・オルデネビッツ氏や、浦和レッズで人気のストライカー水内猛氏、さらに翌年にはドーハの悲劇の際に正ゴールキーパーだった元日本代表の松永成立氏、など錚々たるメンバーが加入していた。

ベガルタ仙台へ

クラブが大きく動く中で加入した、高卒新人の千葉氏。背番号は29を与えられたが、1年目は大型補強の影響もあってリーグ戦の出場は無かった。
しかし、この年にJリーグ昇格を逃し翌年からベテラン選手達が徐々にチームを去ることとなったため、2年目になると千葉氏は同期の中島氏と共に出場機会を増やし始め、3年目にはレギュラーに定着した。千葉氏と中島氏は今後のクラブの中心選手となるため、千葉氏が7番、中島氏が10番とレギュラー番号を与えられた。

当時のJFLから、1996年にはアビスパ福岡と京都パープルサンガ(当時)が、1997年にはヴィッセル神戸が、1998年にはコンサドーレ札幌(当時)がJリーグに昇格を果たす中、ブランメル仙台はいずれも15位、5位、8位と中位止まりだった。そのため、Jリーグ参入は1999年のJ2開幕まで待つこととなるが、この期間のJFLで出場機会を掴んだ千葉氏は、チームの中心に構える守備的ミッドフィールダーとして中心選手へと成長する。
J2に戦いの場を移した1999年には、クラブ名が現在と同じベガルタ仙台へと改められ、引き続き中心選手としてプレーした。2001年にはこの年に加入した元日本代表の岩本輝雄氏や、現在ベガルタ仙台の監督と務める渡邉晋氏らの活躍もあり、東北のクラブとして初となるJ1昇格を達成する。

クラブの歴史と共に歩んだ千葉直樹氏

千葉氏が中心選手としてJ1昇格となったベガルタ仙台だが、J1昇格した事を受けて大型補強を敢行。その中には千葉氏と同じポジションを務める元日本代表で後に監督としてJ1で3度の優勝を達成する森保一氏らもいた。その結果千葉氏は出場機会を減らす事になる。
大型補強により作られたチームは、昇格1年目のファーストステージこそ躍進を見せるがセカンドステージに入ると低迷。J1初年度の2002年こそなんとか残留に成功するが、翌2003年には降格し、2004年から再び戦いの場をJ2に移すこととなる。しかしこのJ2でも開幕3連敗で、4節にようやく初勝利を迎えたが、その後再び3連敗とクラブにとって苦しい時期が続いた。

この苦しい時期を好転させたのは、千葉氏ら若手選手が出場機会を得るようになってからだ。
クラブはここからの数年間、不安定な戦いを繰り返していたが、なんとかチーム引っ張り続けた千葉氏が2009年第48節の水戸戦でゴールを決め、この試合で7年ぶりとなるJ1昇格を決めた。
千葉氏は翌2010年シーズン限りで現役引退を決断するのだが、クラブはこの2010年以降J1に定着する。
クラブにとって紆余曲折を経ることとなった、1999年のJ2加入から、1度目のJ1昇格とJ2降格、そして2009年のJ1昇格。この全てをユニフォームを着て経験しているのは、千葉氏ただ1人だ。ベガルタ仙台がJ1のクラブとなっていく歴史は、常に千葉氏のキャリアと共にあった。

千葉氏が引退の際に「7番を永久欠番に」との声もあったが、「この番号を背負った愛される選手が出てきて欲しいので、永久欠番にはしないで欲しい」と自らがクラブに要望。今後さらにクラブが大きくなるために、もっと地元選手や下部組織出身選手が出てくるクラブになって欲しいとも語った。
翌2011年は、7番にふさわしい選手がいないという事で空き番号となるが、2012年に仙台大学から加入した奥埜博亮選手に、7番を与えられる事となる。

7番を託されたルーキー奥埜博亮選手

奥埜選手は2012年にベガルタ仙台に正式に加入するが、加入前の2009年から2011年までは特別強化指定選手だった。仙台大学サッカー部に所属しながら、ベガルタ仙台にも登録されており、大学2年時の2010年にはヤマザキナビスコカップ(当時)の京都サンガ戦に背番号35番をつけて出場している。
奥埜選手は2007年まではベガルタ仙台ユース、その前はベガルタ仙台ジュニアユースと、中学生の時からベガルタ仙台の下部組織で育ってきた生粋のベガルダ選手である。
高校3年の時に負傷をしてしまい、トップチームへの昇格は見送られた。その後、仙台大学に進学する事となるが、その時既に当時のコーチ・監督であった手倉森誠氏は、奥埜選手を高く評価していた。
仙台大学サッカー部に所属しながら、全日本大学選抜などでもプレーをする。そして何より2002年に加入以降は、ベガルタ仙台で育てた選手という彼のキャリアは、ベガルタ仙台の「7番」にふさわしい経歴だ。

元7番の千葉氏は守備的ミッドフィールダーだったが、新7番の奥埜選手は攻撃的なプレーを得意にするなど、ポジションも異なる。にもかかわらず、ルーキーの奥埜選手に7番が与えられたのはこういった背景があったからだ。
トップチームに加入した奥埜選手は、当初なかなか出場機会を掴む事ができなかったが、期限付き移籍をしたV・ファーレン長崎で経験を積み大きく成長。ベガルタ仙台に復帰した2015年以降は中心選手としてプレーするようになっている。
プレースタイルもキャラクターも全く異なる新旧の7番だが、千葉氏がクラブの歴史とともに成長した様に、奥埜選手もクラブとともに成長していく事をベガルタ仙台のサポーターは待ち望んでいる。

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