悲劇を忘れないための番号、横浜F・マリノスの背番号3 | SPAIA

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悲劇を忘れないための番号、横浜F・マリノスの背番号3


2人だけの背番号

Jリーグに固定番号制が導入されたのが1997年。2017年で20年目となる。 この20年の歴史の中で、2人しかつけたことの無い背番号があることをご存知だろうか。
それも、近年新たにJリーグに参入してきたチームではなく、Jリーグが開幕した1993年から存在するオリジナル10の1つ。 また番号も、30番代や40番代などの大きな数字ではなく、1番から11番までのレギュラー番号と言われる番号でだ。

その番号とは横浜F・マリノスの背番号3。故松田直樹氏が背負った番号である。 この番号は2011年に永久欠番に指定された。
サッカーでは背番号を引き継ぐ形で後世に伝えるケースが多いのだが、横浜F・マリノスは背番号3番は、永久欠番という手法を選択した。そのため今後もこの番号を背負う選手は出てこない。 横浜F・マリノスの背番号3番は2人しかつけたことの無い番号なのである。

初代背番号3番、鈴木健仁氏

横浜マリノス(当時)の初代背番号3番として登録されたのは鈴木健仁氏だった。
鈴木氏は1990年、まだJリーグ開幕前としては画期的だった日産自動車サッカー部の下部組織、日産ファームに加入。日産自動車サッカー部が横浜マリノスとして活動を始めた1993年、Jリーグ開幕に合わせてトップチームに昇格する。
1年目こそ出場機会をつかめなかったが、当時のレギュラーで日本代表選手でもあった勝矢寿延氏がジュビロ磐田へと移籍すると、右サイドバックのポジションを確保する。
当時の横浜マリノスは、ヴェルディ川崎(当時)と並び、日本リーグ時代からの強豪チームだった。
その横浜マリノスでポジションを掴んだ鈴木健仁氏は、偶然左サイドバックにも同じ姓を持つ鈴木正治氏がポジションを掴んでいた事もあり、様々なところで注目を集めることになった。

超高校級ディフェンダー松田直樹選手

鈴木健仁氏がポジションを掴みつつあった1995年、横浜マリノスに前橋育英高等学校を卒業した松田直樹氏が加入する。
松田選手は同じ世代が集まるU-17日本代表はもちろん、飛び級で1つ上の世代となるU-19日本代表にも選出されていた、注目の逸材だった。10クラブの競合の末、横浜マリノスに加入すると、ルーキーながら開幕スタメンを掴んだ。

開幕戦での背番号は3番。そしてポジションは右サイドバック。つまり高卒ルーキーが鈴木健仁氏からポジションを奪う形となる。松田氏は本来センターバックの選手にもかかわらずだ。

1995年のJリーグはまだ変動番号制。先発メンバーは1番から11番までのいずれかの番号をつける形である。
当時の横浜マリノスのセンターバックには、4番の井原正巳氏と5番の小村徳男氏という日本を代表する絶対的な存在がいた。その為、松田氏は3番をつけて右サイドバックでのプレーとなったのだ。

こうしてプロ1年目の開幕戦から3番をつけた松田氏だったが、固定番号制が始まった1997年に背番号3番をつけたのは鈴木健仁氏だった。

松田氏は、プロ2年目となる1996年に出場機会を減らしていた。
19歳にして出場したアトランタオリンピックの影響も確かにあったが、日産自動車サッカー部からチームを引っ張ってきたベテラン選手が中心となったチームの世代交代にまつわるゴタゴタに、松田氏も巻き込まれたのが原因だった。

14番を選択した松田直樹選手

松田氏が固定番号制1年目につけた番号は14番だった。
1年目の開幕戦から3番をつけ出場しており、世代別代表チームでも3番をつける事も多かったが、あえて14番を選択したのである。
この14番は前橋育英高等学校時代につけていた番号で、当時の監督である山田耕介氏から贈られた番号だ。 山田氏は、中学時代までフォワードだった松田氏をディフェンダーへとコンバートし、世代別代表入りへのきっかけを作った恩師である。
そんな山田氏から送られた14番は、松田氏にとってルーツとも言える番号だった。

しかしこの1997年は、半月板損傷という大怪我を負い翌1998年前半まで離脱してしまう。
復帰後は再びポジションを確保するものの、松田氏にとっては14番をつけて戦った2年間は厳しいシーズンでもあった。

背番号3番を背負う松田直樹選手

1999年、松田氏は背番号を3番に変更する。
これは、前任の3番であった鈴木健仁氏が1998年途中に移籍しており3番が空き番号だったという事もあるが、「井原氏の4番の1つ前の番号」という意味もあり3番を選択した。

3番をつけた松田氏の活躍は凄まじいものがあった。
2000年には2大会連続となるオリンピック出場を果たし、さらに日本代表にも選出。Jリーグのベストイレブンにも選出された。2002年には日韓ワールドカップにも出場し、日本代表の中心選手としてプレーしている。
また、2003年、2004年のJリーグ史上初となる横浜F・マリノスの連覇には、キャプテンとしてチームを牽引した。

この頃には、松田氏は横浜F・マリノスを象徴する選手であることはもちろん、Jリーグを代表するディフェンダーとしてサッカーファン全体から認められる存在だった。背番号3番は松田氏を象徴する番号となっていたのだ。
しかし2010年、度重なる怪我やチームの若返り策もあって横浜F・マリノスを退団。当時JFLだった松本山雅FCへと移籍する。
そしてその年、突然の悲劇は襲った。2011年の8月2日、チームの練習中に倒れた松田氏は救急搬送されるものの、同8月4日に返らぬ人となったのだ。
この悲劇的な事故のニュースは世界中で報じられ、当時のFIFA会長ゼップ・ブラッター氏からも追悼の言葉が贈られた。

横浜F・マリノスの背番号3番は永久欠番に

松田氏が退団した2011年、横浜F・マリノスは松田氏が12シーズンに渡って背負った背番号3番を空き番号としていた。
クラブにとって松田氏の存在はあまりにも大きかったからだ。

そして、横浜F・マリノスの3番は永久欠番となる。
永久欠番への動き、その中心となったのは、中村俊輔選手だった。松田氏の2年後輩にあたる中村選手は、2002年の 途中まで横浜F・マリノスで松田氏と共に戦い、松田氏が横浜F・マリノスで戦った最後のシーズンに、再びヨーロッパから復帰していた。
Jリーグでは数少ない永久欠番の1つとなり、これにより今後横浜F・マリノスで背番号3を背負う選手は出てこないこととなった。

サッカーは元々変動番号制であったことから、プロ野球とは異なり「背番号を繋ぐ」という形で過去のレジェンド達の功績を後世に伝えていくという形式が多い。
しかし近年は、松田氏の背番号3番の様に、悲劇的な事故を忘れない為に永久欠番とするケースが増えてきている。

その中には、スペインRCDエスパニョールのキャプテンだったダニ・ハルケ氏がつけた21番がある。この時のエスパニョールには中村俊輔選手がいた。
松田氏の背番号3を永久欠番へとする働きかけを、中村俊輔選手が中心となって行ったのは、エスパニョール時代の事故もあっての事だったのだろう。

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