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ヴィッセル神戸に受け継がれる背番号13番の系譜

2017 8/25 10:07Aki
サッカー
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背番号13番のストライカー

サッカーの各国リーグ戦では、1990年代までは先発メンバーが背番号1から11までを背負い、12から16までをベンチメンバーが背負う変動番号制が採用されていた。
そのため、固定番号制となった現在でも、1番から11番をつける選手はレギュラーまたはレギュラーに近い存在であると認められ、各チームのエースナンバーも1番から11番までの間になっている事がほとんどだ。

しかし、一部例外がある。
例外の中で最も有名なものは14番。スーパースター、ヨハン・クライフ氏がオランダの名門アヤックス・アムステルダムで付けた番号だ。
当時のヨーロッパでは珍しく、オランダリーグでは1970年代から固定番号制を導入していた。だからこそ14番がエースナンバーとなることが出来た。当時、他の国では先発選手がこの番号をつける事ができなかったため、世界的な流行になることは無かったが、固定番号制が導入されると人気の番号となった。

ストライカーにとって14番以上に人気を集めたのは13番だった。
爆撃機の異名をとったストライカー、ゲルト・ミュラー氏が当時の西ドイツ代表で背負った番号だ。世界中で行われていたリーグ戦では変動番号制を採用するリーグがほとんどだったが、ワールドカップなどの出場メンバーを予め登録する代表チームの大会では固定番号制が採用されていた。
13番を背負ったミュラー氏は、西ドイツ代表で62試合出場68得点を記録。その中でもワールドカップにめっぽう強く2大会で14得点を記録。これは2006年にブラジルのロナウド氏に抜かれるまで、32年間ワールドカップ通算最多得点記録だった。
ミュラー氏の活躍により、13番という番号はストライカーにとって憧れの番号となっていった。

ヴィッセル神戸に13番を定着させた永島昭浩氏

ゲルト・ミュラー氏の活躍によりストライカーの番号としても知られるようになった13番。この番号は、Jリーグではヴィッセル神戸などで今なお受け継がれている。
ヴィッセル神戸に、13番=エースストライカーという図式を持ち込んだのは、現在TVでもおなじみの永島昭浩氏だ。
永島昭浩氏は1983年に現在のガンバ大阪の前身となる松下電器産業サッカー部に入部。当時はまだ関西リーグだったチームをトップディビジョンへと引き上げ、1993年に開幕したJリーグではチームのエースストライカーとして活躍した人物である。
ガンバ大阪では9番をつけてプレーする事が多かったが、ゲルト・ミュラーの現役時代を知る世代。Jリーグ開幕前は13番をつけていた事もあった。

そんな永島氏が1995年のシーズン途中、当時プレーしていた清水エスパルスからヴィッセル神戸への移籍を決断する。
当時のヴィッセル神戸といえば、まだジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に所属しJリーグ入りを目指していた規模のチームだ。そこに、Jリーグでエースとしてプレーしていた永島氏が加入するという事は、かなり珍しい事であり大きな話題となった。

永島氏のヴィッセル神戸加入に大きな影響を及ぼしたのが、1995年に起こった阪神大震災だった。
自身の地元で起こった震災を目にし「神戸を勇気づけたい」としてヴィッセル神戸への加入をきめたのだ。 永島氏の加入したヴィッセル神戸は、加入初年度の1995年こそ震災の影響もありJFLで6位に終わるが、翌1996年には準優勝を達成。13番に背番号を変えた永島氏がチームを引っ張り、Jリーグ昇格を決めた。
このシーズンが、ヴィッセル神戸で13番が特別な番号となった瞬間だった。

受け継がれる13番の系譜

チームのエースナンバーが定着するためには、その番号を引き継いだ選手の活躍は必須だ。
ヴィッセル神戸において、最初にその役目を果たしたのは日本代表経験もある、播戸竜二選手だった。
播戸選手はガンバ大阪に練習生として加入後、コンサドーレ札幌への期限付き移籍を経て、2002年にヴィッセル神戸に加入。当時既にヴィッセル神戸に所属していた三浦知良選手と共に中心選手としてプレーする事となる。
播戸選手は三浦選手への敬意を込めてこれまで11番にこだわってきたが、その三浦選手とチームメイトとなったことで13番をつけることになった。
13番をつけた播戸選手が、目覚ましい活躍を見せたのは2004年。自身のキャリアハイでもあり、リーグ3位の得点数となる17得点を記録し、自他共認めるチームのエースとなったのだ。

ヴィッセル神戸における13番のルーツは永島氏がつけていた事に由来しているのは確かだが、その後もストライカーがつける大切な番号となっていったのは、播戸選手が13番を背負ってゴールを量産した事による部分も大きい。

13番をさらに大きくした大久保嘉人選手

永島氏、播戸選手と引き継がれた13番をさらに大きなものとしたのは、大久保嘉人選手だ。
3年連続得点王となった川崎フロンターレでも、2017年に移籍したFC東京でも、13番を背負う大久保選手。今や大久保選手を表す番号ともいえる13番だが、この番号はヴィッセル神戸のエースナンバーとして与えられた番号が、そのまま大久保選手の番号となった。

大久保選手は国見高校卒業後、セレッソ大阪に加入。セレッソ大阪では15番や10番を背負っていた。またスペインのRCDマヨルカで背負っていたのも17番。
2007年にヴィッセル神戸に加入するまで、プロでは一度も13番を背負った事が無い。

しかし2007年、セレッソ大阪からヴィッセル神戸に移籍すると、ヴィッセル神戸はチームのエースナンバーである13番を用意した。
この13番をつけて、チームのエースとして大活躍を見せる。
ヴィッセル神戸では、ストライカーとしてプレーするというよりも、チームの攻撃の核として、攻撃の組み立てやチャンスメイクにも奮闘する事が多かったため、後の川崎フロンターレでのように多くのゴールを量産するという事はなかった。
それでも、大久保選手はチームにとって最も重要な選手で、チームのエースであり、顔であった。
大久保選手がつけた事で、ヴィッセル神戸の13番の価値が高まった事は間違いない。

現在13番をつける小川慶治朗選手

現在のヴィッセル神戸で13番をつけるのは小川慶治朗選手。
小川選手は、ヴィッセル神戸の下部組織出身で、下部組織に所属しながらトップチームにも登録された初めての選手。またクラブ最年少出場記録を持っており、クラブやサポーターにとって特別な存在だ。(※2015年4月12日 J1神戸のDF藤谷壮に記録を更新された。)
その小川選手が神戸のエースナンバー13番を背負う事になったのは2012年のこと。それまで13番を背負っていた大久保選手が10番に変更し、トップチームでプレーするようになった3年目、プロ選手となってからは2年目の小川選手がエースナンバー13番を引き継ぐ事になったのだ。
これだけでも、小川選手の存在の大きさがわかる。 小川選手が13番を背負った1年目はチームが不振にあえぎ、最終的にはJ2に降格することとなるが、攻撃陣を牽引したのは若い小川選手だった。
そしてJ2での戦いとなる2013年も主力として活躍。16得点を記録し、チームのJ1復帰を引っ張った。
しかし2015年以降は怪我で苦しんでいる。ルーカス・ポドルスキ選手や、ハーフナー・マイク選手の加入で注目を集めているヴィッセル神戸だが、チームの上位進出に必要なものは、エースナンバー13番を背負う小川選手の完全復活なのかもしれない。