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セレッソ大阪のレジェンドが繋いだエースナンバー背番号8

2017 8/25 10:07SPAIA編集部
サッカー、ユニフォーム、8番
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固定番号制導入によって誕生したチーム毎のエースナンバー

Jリーグに固定番号制が導入されたのが1997年。それまでは試合ごとにスターティングメンバーに選ばれた選手が1から11番、交代選手が12番から16番の背番号を背負う形式だったが、導入後は選手の背番号が固定された。それに伴い、各チームに伝統の背番号が生まれた。

セレッソ大阪では10番や9番ではなく、8番がエースナンバーだ。これは下部組織も含め、中学年代、高校年代のチームでも8番を背負う選手がエースとなっている。どの年代の選手も8番をつける事を目指し、そして8番の選手はその責任とプライドを背負ってプレーしている。

そこには、これまでトップチームで8番を付けてきた4人の選手によって築かれた伝統がある。

日本一腰の低いサッカー選手がつけた背番号8

セレッソ大阪の背番号8が特別な番号となったのは、ミスターセレッソこと森島寛晃氏が初代8番を背負っていたからだ。現在はセレッソ大阪の代表取締役社長を務める森島氏。セレッソ大阪がJリーグ入りした1995年、当時はまだ背番号変動制の時代に背番号8番を背負ってエースとして活躍した。

その年は14チーム中ファーストステージ9位、セカンドステージ10位とJリーグの厳しさを味わう事になるのだが、森島氏は11ゴールを記録し、Jリーグ加入1年目ながらベストイレブンにも選出された。

また、この1995年に当時の日本代表監督であった加茂周氏により、日本代表にも選出される。2列目から豊富な運動量と抜群の飛び出しでゴールに迫るプレースタイルは、司令塔やドリブラーが多かった当時の日本サッカー界では画期的であり、現代的な攻撃的ミッドフィールダーだった。

そして森島氏の背番号が後に伝えられるほどになった要因は、プレースタイルだけでなく彼自身のパーソナリティーにもあった。

チームメイトの西澤明訓に「日本一腰の低いサッカー選手」と言わしめた謙虚な人柄は、サポーターに対しても同様だ。常にファンサービスを欠かさず、丁寧に接する様は、全てのセレッソサポーターのハートをつかんだ。西澤によって付けられた異名は森島氏のキャッチフレーズにもなり、引退した際には『ありがとうミスターセレッソ森島寛晃 ~引退・日本一腰の低いJリーガー~』という特番が放送された。

2代目8番、香川真司

森島氏が引退を決断した2008年。リーグ戦最終節のアディショナルタイムに出場すると、引退セレモニーの後、その場である選手に自身の背番号8が入ったユニフォームを託した。

ある選手とは現在はレアル・サラゴサでプレーする香川真司だ。高校2年生だった2006年に仙台のクラブチームから加入したプロ3年目だった。

2006年は公式戦の出場はなかったものの、チームがJ2で戦うことになった2007年に当時の監督だったレヴィー・クルピ氏により、ボランチから攻撃的ミッドフィールダーにコンバートされる。その後すぐに出場機会を掴み主力選手に成長。森島氏が首の痛みにより試合に出場できなくなった2008年には、森島氏に変わるチームのエースとして活躍していた。

そして、森島氏の8番を受け継いだ2009年の香川の活躍は凄まじいものがあった。

この年J1に昇格し、その半年後にはボルシア・ドルトムントへ移籍。香川がJ1でプレーしたのは2010年のわずか半年であり、またこの年はワールドカップイヤーであったため、当時のドイツでの活躍は驚きを持って報じられた。

しかし、2009年のJ2での活躍を見ていた人にとっては、そこまで驚きはなかったのではないだろうか。J2得点王に輝いた香川のプレーはずば抜けており、まるでテレビゲームを見ているようだった。

森島氏が長年背負った8番を香川が背負い、大活躍を見せたことでよりその背番号の価値は高まることとなった。

3代目8番、清武弘嗣

森島、香川の背負った8番を次に継いだのは清武弘嗣だった。

清武は2010年に大分トリニータからセレッソ大阪に加入。高校3年時に大分の下部組織からトップチームに昇格しており、将来を嘱望される選手だったことは間違いない。しかし全国的に知名度を高めたのは、セレッソ大阪に加入してからだ。

チームにとって大きな存在だった香川がドイツに移籍したものの、その穴を埋める活躍を見せ、翌2011年には日本代表に選出。日本代表デビューとなった札幌での韓国戦に、岡崎慎司選手の負傷により途中出場を果たすと、いきなり2アシストを記録して快勝の立役者となった。

しかし、この時点では、まだ背番号8を背負っていない。清武は2010年の後半にはチームを引っ張る活躍を見せ、2011年はチームの中心選手として開幕を迎えたが、同年のセレッソ大阪は8番を欠番としてシーズンを戦った。

清武が8番を背負ったのは2012年。日本代表にも定着し、ロンドンオリンピックに向けた代表チームでも中心選手としてプレーし始めてからのことで、セレッソサポーターだけでなく、サッカーファン全体からも清武がセレッソ大阪のエースと認められた証だった。

このことからも、セレッソ大阪がクラブとして森島、香川と繋いできた背番号8をどれほど大切に扱ってきたかが分かる。

4代目8番、柿谷曜一朗

清武の後を継いで2013年から背番号8番を背負ったのは、柿谷曜一朗だった。

柿谷はセレッソ大阪というクラブ、そしてサポーターにとって特別な選手だ。柿谷がセレッソ大阪の一員となったのは4歳の時。セレッソ大阪のサッカースクールからステップアップし、高校1年時にトップチームに昇格。1歳年上の香川が加入したのと同じ2006年だった。

この年のAFC U-17選手権に出場すると、唯一のプロ選手として大会に出場して優勝に貢献し、大会MVPにも選ばれた。そして翌年のFIFA U-17ワールドカップでは大会のハイライト映像にも選ばれるゴールを決めている。

この時点では、同期入団の香川よりも評価は上。世界的な注目をも集める選手で、セレッソ大阪の希望だった。その後、紆余曲折があり、徳島ヴォルティスに期限付き移籍をすることとなるが、2012年にセレッソ大阪に復帰する。

復帰1年目の2012年は清武が8番を背負い、柿谷は13番だったが、2012年にチームを牽引する活躍を見せ、清武移籍後にはエースに。そして2013年、柿谷が背番号8を背負ったことで、セレッソ大阪にとって8番がより特別な番号となった。