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サッカー Jリーグを盛り上げた助っ人外国人選手5人

2016 8/20 05:15
イメージ画像,ⒸMaster1305/Shutterstock.com
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日本代表の監督としても活躍した「ジーコ」

1993年のJリーグ開幕から日本サッカー界を牽引してきた一人でもあるジーコ。所属の鹿島アントラーズではカッパ頭がトレードマークであるアルシンドとのコンビでゴールを量産するなど目覚ましい活躍を見せる一方、相手ペナルティキックの際にボールに唾を吐いて退場になるなど、いい意味でも悪い意味でも記憶に残るプレーが多い選手だ。

Jリーグを引退した後は、日本代表の監督として2006年ドイツワールドカップに出場している。

持ち前のテクニックと強力なミドルシュートで魅了した「エムボマ」

大の親日家として知られる元カメルーン代表のエムボマ。フランスの名門・パリサンジェルマンで活躍した後に、Jリーグのガンバ大阪に電撃移籍した。これは、日本のみならず世界中のサッカーファンに衝撃を与えた。

移籍してからは34試合に出場し、29得点を挙げる活躍を見せた。1998-99年シーズンから再度ヨーロッパに活躍の舞台を移すも、2003-04年シーズンに東京ヴェルディで、2004-05年シーズンにヴィッセル神戸でプレー。強力なミドルシュートで相手ディフェンダーを圧倒した。

数々のプレーでサッカーファンを虜にした「ストイコビッチ」

ピクシー(=妖精)の愛称で親しまれたストイコビッチ。1994年から7年にもわたり名古屋グランパスの中心選手として活躍し、2度の天皇杯優勝にも貢献した。1995年9月に開催された試合では、大雨の中リフティングをしながらドリブルをする姿に度肝を抜かれたサッカーファンも少なくないだろう。

現役引退後は故郷ユーゴスラビアのサッカー協会会長などを務め、その後、名古屋グランパスや中国のプロサッカーリーグの監督として活躍した。

当時の最高年俸を記録した「ゲーリー・リネカー」

元イングランド代表のフォワード、ゲーリー・リネカー。1978年から85年までレスターに所属し、194試合に出場、95点を挙げる活躍を見せた。

その後、バルセロナやトッテナムでプレーし、1992-93年シーズンにJリーグの名古屋グランパスに移籍。年俸は当時Jリーグ最高額の3億円だったが、2シーズンで18試合4得点と不振にあえぎ、2シーズンのみで日本を去った。

ヴェルディの全盛期を支えた「ビスマルク」

ジーコやアルシンド同様、Jリーグ創成期から日本サッカー界を盛り上げた外国人選手、ビスマルク。今も現役の三浦知良を始め、ラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪などと一緒に全盛期のヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)を支えた。

ゴールを決めた時に見せるパフォーマンス“ビスマルクポーズ”はサッカーファンの間で話題になり、それをマネする小学生もいた。