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ヴァンフォーレ甲府の歴代監督がチームに残したモノ

2016 8/13 15:01
イメージ画像,Ⓒjanews/Shutterstock.com
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甲府サッカークラブからの移行

1965年に結成された甲府クラブ(1967年より甲府サッカークラブ)を前身とするヴァンフォーレ甲府は、1995年に現在のチーム名に改称し、1999年よりJ2への参加が承認された。

甲府サッカークラブのOBで元監督の勝俣進が監督に就任するが、開幕10試合未勝利を喫するなど成績は振るわず、翌年、塚田雄二が監督についた。塚田は勝俣の前にヴァンフォーレ甲府の監督を務めていたが、Jリーグの監督に必要なS級指導者ライセンスをもっていなかったため、その資格を取得しての復帰だった。

だが費用不足などから補強もできず、途中退団者が多く出たため、急遽スタッフを選手登録するなどして窮地をしのぎつつ、試合結果は6連敗、19連敗を含む26試合未勝利となるなど、成績も絶不調。更にーズン終了直前に経営危機が破格し、チームの存亡が問題にもなった。

チームの存続と勝てるチーム作り

存続運動の結果、体制が変わり、ブラジルのプロサッカーチームSEパルメイラスと提携を結ぶことになり、4人の選手を始め、監督のルイス・ドス・ヘイス・ゴンサベルが甲府にやってくることになった。

成績は3年連続最下位だったが、チーム存続の条件だった平均観客動員数3000人以上、クラブサポーター数5000人以上、スポンサー収入5000万円以上の3つの条件をクリアしたため存続が決定。新しく歩み出すことになった甲府は2002年、パルメイラスとの提携を解除し、清水エスパルスと提携する。

そこで監督に大木武が就任。各選手の台頭で得点力がつき、清水エスパルスのアライールをレンタル移籍させることで守備を固め、最下位から7位まで順位を引き上げる好成績を残した。ここから勝てるチーム作りが出来上がっていく。

攻撃的サッカーでJ1昇格へ

その後2003年と2004年は東京ベルディの元監督松永英機が監督を勤めた。ツートップ体制の得点力重視のスタイルで、03年は5位と健闘、04は7位という成績をおさめた。

そして2005年より、大木が監督に復帰。とうとう3位となりJ1J2入れ替え戦で勝利し、ついにJ1昇格が決定した。解散危機を乗り越え資金力も乏しいなか、Jリーグ参入から6年目にして勝ち取った勝利だった。

その後2006年と2007年は、ハイプレス、ショートパス、クローズというスモールスペースで勝負をする戦略のサッカーを行った。だがなかなか機能せず、J1の洗礼も受け、07年にJ2降格が決定。大木も退任した。

ついにJ2優勝!J1定着へ

08年からはヘッドコーチだった安間貴義が2年間監督を務め、健闘しつつもJ1昇格を逃す。そこで2010年は前年ヘッドコーチだった内田一夫を監督に昇進させ、横浜FMからハーフナー・マイクを獲得、戦術も攻撃的なものに変更した。ハーフナーはJ2得点王となる20得点をあげ、ついに4年ぶりのJ1復帰を決めた。

2011年に三浦俊也が監督になるも、攻撃的サッカーに三浦の守備重視な戦術は上手くフィットせず7月で解任。その後、佐久間悟が立て直しを図るがJ2降格が決定し、佐久間も解任された。

そして2012年、元FC東京の監督だった城福浩が監督に就任し、主力選手が退団するなかチームを補強。ムービングフットボール戦術をとることで、ついに初のJ2優勝を決めた。その後3年間、城福体制は続いた。2013年からはJ1下位ながらも降格はせず、地力を上げ続けている。