勝つ喜びを教えてくれたホルガー・オジェック
弱小チームであった浦和レッズを一躍優勝争いするチームにまで押し上げたのが、ホルガー・オジェックだ。1995年にレッズの監督に就任し、当初はギド・ブッフバルトを中心とした強固な守備を中心に勝ちを重ねていくが、徐々にポゼッションサッカーを標榜して魅力的なチームを作った。
惜しくも、第一期ではタイトルを獲得できなかったものの、第二期となる2007年にはACLを優勝するなど、その手腕は高く評価されている。浦和レッズに勝つ喜びを教えてくれた、レッズ史上でも最高の監督と言っても過言ではない。
チームのレジェンドは監督としても成功 原博実
かつて三菱自動車サッカー部で大活躍していた名選手が、原博実だ。ストライカーとして活躍していたが、Jリーグ開幕目前の1992年に現役引退している。そのレジェンドとも言える原博実は、1998年に浦和レッズのトップチームの監督に就任した。
当時、新人であった小野伸二をスタメンで起用し続け、当時としてはチーム歴代最高のステージ3位にまでチームを押し上げる。また、長くレッズを支え続けた山田暢久をキャプテンに据えるなど、その指揮ぶりには注目が集まった。
型にとらわれない起用法は、今のレッズの礎を築いたと言っても過言ではない。
レッズに初めてのタイトルをもたらしたギド・ブッフバルト
ドイツ代表の実績を引っさげて、浦和レッズに選手として入団したのがギド・ブッフバルトだ。圧倒的に長いリーチから繰り出すスライディングを真似したという人も多いのではないだろうか。レッズを愛したブッフバルトは、現役引退後もレッズと良好な関係を続け、2004年にはチームの監督に就任する。
自身のプレイスタイル同様、強固な守備からエメルソンと田中達也の圧倒的なスピードを活かすカウンターサッカーで、ファーストステージ優勝の快挙を成し遂げる。その後も、優勝争いの常連となり、2006年ではJリーグ初制覇を記録している。また、2007年元旦の天皇杯も制覇して、これを置き土産に退団する。
名選手は名監督にあらず、この定説を打ち崩した監督としても有名だ。
賛否があったがレッズの基礎を作った?フォルカー・フィンケ
黄金期から一変して、低迷が続いたレッズを救うために招集されたのが、ドイツ人のフォルカー・フィンケだ。フライブルクで何と16年もの間監督を続けていた実績が評価されてのものだが、就任当初より積極的に若手選手を登用する。
開幕戦で、当時17歳であった原口元気をスタメン起用、その他にも山田直輝や高橋峻希を起用しつつも中盤戦までは好調をキープしていた。また、今までのレッズのサッカーのイメージを変えるようなスタイルを採用した点も評価されていた。ただ、シーズン後半で一気に尻すぼみとなり、その起用法にも批判が集まるようになってきた。そんな中で、主力選手との軋轢も見られるようになり、2シーズンでフィンケ体制が終了する。
ただ、今でもフィンケの手腕を高く評価する人が多くいるのは事実だ。
まとめ
ミハイロ・ペトロヴィッチ体制となり、もう5シーズン目に突入しているが、今のチームの礎を築いたのは今回紹介した監督たちなのだ。また、世界の舞台で選手たちが躍動するシーンを是非見たいところだ。