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「天才」家長昭博の終わらない旅

2017 5/17 09:55Aki
ienaga
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1986年6月13日生まれ

1986年6月13日、日本サッカーに大きな影響を与える選手が産まれた。 その選手とは、後にACミランの10番を背負い、ワールドカップでも見事なフリーキックを決めた本田圭佑選手だ。三浦知良選手、中田英寿選手、中村俊輔選手ら、これまで日本代表を引っ張ってきた選手と同じく、サッカー日本代表、そして日本サッカー界を語る上では欠かす事が出来ない人物だろう。
そしてもう1人、本田圭佑選手と全く同じ日に産まれたのが家長昭博(いえなが あきひろ)選手だ。 同じ誕生日、同じ利き足を持つ2人は、同じガンバ大阪ジュニアユースでチームメイトとなる。
しかし、この2人の内でガンバ大阪のユースチームに上がったのは、家長選手だけだった。本田選手はユースチームに昇格できず、星稜高校に進む事となる。
この後、現在までのキャリアを考えると、このガンバ大阪の判断は間違っていたと考える方もいるかも知れない。しかし、その能力・ポテンシャルを考えるとより底がしれないのは家長選手なのだ。
早くから育成組織の重要性を捉え尽力し、ガンバ大阪の育成を支えた、上野山信行氏にとっても、稲本潤一選手、宮本恒靖選手、新井場徹選手、大黒将志選手、宇佐美貴史選手らガンバ大阪から巣立っていった数多くのタレントの中で、最も優れていた選手は家長選手だと語っている。

高校2年生にしてトップチームデビュー、そしてゴール、その後大怪我

ユースでは、天才選手として知られていた家長選手。高校2年生になると、ユースチームに所属しながら、2種登録選手としてトップチームに帯同することになる。そしてデビュー戦となったアルビレックス新潟との試合で、いきなりゴールも決める大活躍をみせ、その直後にプロ契約を獲得する。ユースチームに所属する高校2年生の選手だったが、卒業の1年以上前にプロ選手となったのだ。
この時、すでにガンバ大阪の中心選手としてプレーしていた遠藤保仁(えんどう やすひと)選手は、サッカー人生のなかで衝撃を受けた選手の一人として、トップチームに昇格したばかりの家長選手の名前を挙げていた事もあった。
当時のガンバ大阪は、新井場選手が鹿島アントラーズに移籍した事で左サイドの選手を求めており、その穴を埋めたのが家長選手だった。本来は中央でプレーする選手なのだが、変幻自在のドリブルでガンバ大阪のサイドアタックを支えたのだ。
しかし、徐々に本来のポジションではなかった事もあって出場機会を減らす。またその後、当時のガンバ大阪監督であった西野朗氏が家長選手をメッシに例え、3トップの右をテストしたりもしたが、得意なポジションの先発を争うのが遠藤選手や二川選手、橋本選手などの既に実績十分の選手。
この牙城を崩しきれず出場機会を減らすこととなり、出場機会を求めて大分トリニータに期限付き移籍をする。しかしここで十字靭帯損傷の大怪我をおい、いつしかあまり名前を効かない存在へとなっていた。

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