旧JFLに初参戦、中野監督下では4勝26敗
1997年に前身であるFC水戸(1994年創設)がプリマハムFC土浦を吸収合併し、水戸ホーリーホックが創立。Jリーグ2部移行に伴い1999年からJFLに参戦し、2000年からはJリーグに参戦した。
1997年は中野雄二氏が監督を務めた。中野と言えば、今でこそJリーガーを多数輩出するサッカーの名門校「流通経済大学」を築き上げた第一人者として知られているが、水戸ホーリーホックでの戦績は、開幕からの14連敗を含む4勝26敗と記録的な惨敗で最下位に沈む結果だった。
札幌のJ昇格と財政支援に乏しかった福島FCの消滅によって、地域リーグの上位クラブとの入れ替え戦を回避することはできたが、中野は退任に追い込まれた。
99年に二宮監督でJリーグ加盟を決める
JFL2年目を率いたのは、三浦俊也だった。現在は大宮、札幌、神戸、甲府、そしてベトナム代表監督(16年1月に解任)を務めるまでになった三浦だが、初めてシーズンを通じて監督を務めたのが水戸だった。財政的にも不安定な中で戦い抜き、最下位は免れたものの、年間成績は14位。三浦もまた1年限りでチームを去った。
99年は、かつて浦和の選手だった二宮浩が監督を務めた。9チームによる3回戦の総当たり戦、第1ステージでは6位と苦戦するも、第2ステージでは優勝した横浜FCに次ぐ3位と躍進。通常Jリーグへの加盟条件はJFL2位以内だったが、JFL準会員である横浜FCが優勝したため、“正会員2位”ということが考慮され、悲願のJリーグ加盟が認められた。
J初参戦はブランコ監督、粘りの守備で善戦
念願のJリーグ加盟を果たし、J2所属となって初の監督はセルビア人のバビチ・ブランコだった。同時に二宮はJリーグの監督として必要なS級ライセンスを所持していなかったため、コーチとしてチームを支えることになった。
資金不足の状況は変わらなかったが、チームは昇格初年度ながら全12チーム中9位と善戦を見せた。失点数はリーグ7位と粘り強い守備に加え、途中加入の元ブラジル代表FWジョン・パウロの活躍によって達成。
翌01年は後に経営難からクラブの所有株と社長職を引き受けて運営に携わることになる小林寛が、そしてヘッドコーチだった菅野将晃が02年まで指揮をとり、課題の守備向上に尽力した。
長期政権の前田監督の下、チームは躍進
03年はクラブにとって節目のシーズンとなった。新たに招へいされた前田秀樹の下、戦術をカウンターベースにチームは強化され、加えて広島からレンタル移籍したDFトゥーリオ(田中マルクス闘莉王)がセンターバックから攻撃参加することで得点力がアップした。第1クールの11節終了時点で2位と大躍進を遂げ、最終順位も7位と粘りを見せた。
前田体制の2年目はトゥーリオのレンタル延長が叶わず浦和に移籍したり、長年チームを支えた主力も離れたりと、タレント不足で勝ち星には恵まれなかったものの、カウンター戦術による引き分け試合を重ねたことが奏功し、なんとか順位を1桁台の9位にとどまらせることができた。
しかし、前田体制も終盤になると、カウンターからパスをつなぐ攻撃的システムへと変更するも勝ち点は伸び悩み、順位も10位前後をさまよい続けた。
J初の1970年代生まれの監督、木山体制で底上げ
2008~10年まで指揮をとったのは、Jリーグ初となる1970年代生まれの監督であり、OBでもある木山隆之だった。
資金繰りが乏しいことから、選手獲得はJクラブからではなく、大学で実績を挙げた選手に動きかけた。しかし、2年目になると序盤に4連勝を飾り、折り返し時点で5位と好調。J参入以来、初めて白星が黒星を上回った。
11年シーズンからは柱谷哲二が監督に就任したものの、開幕直後の東日本大震災による被災でさらに運営が困難になり、リーグ戦も17位と順位を落とした。しかし、天皇杯ではG大阪を破り、公式戦で初めてJ1クラブに勝利した。
資金が乏しく、タレント不足のなか運営を強いられてきた水戸ホーリーホック。結果を求められ、試合をやりくりしてきた監督の苦労も反映している。15年シーズンには年間観客動員が初めて10万人を突破するなど、徐々に人気も出てきている。今後のかじ取りに注目したい。