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湘南ベルマーレの歴代監督がチームに残したモノ

2016 8/13 15:01
湘南ベルマーレ
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湘南ベルマーレ旋風、いきなり炸裂

栃木県で1968年に発足した藤和不動産サッカー部から始まった湘南ベルマーレは、93年に運営会社となる株式会社フジタスポーツクラブが設立。同じ年、Jリーグの準会員として承認されるとともに運営会社も「ベルマーレ平塚(チームも同名)」に改名、同時にJFL1部で優勝し正式にJリーグ参入が認められた。その後、2000年に現在のチーム名、湘南ベルマーレとなった。

Jリーグ参入1年目の94年は、かつてフジタでプレーをしていたOB、古前田充が指揮をとった。ファーストステージは12チーム中11位と厳しい洗礼を浴びたものの、セカンドステージになると2位に躍進。超攻撃的サッカーから「湘南の暴れん坊」との異名を持つようになり、天皇杯でも後に参入してくるC大阪を下し初優勝した。

植木監督の功績は中田のトップ下へのコンバート?

95年には日本サッカーの中心選手だった中田英寿やロペス(後の呂比須ワグナー)の入団により、若手を含んだ戦力面が充実しているようにも見えたが、フタを開けてみると年間11位という結果だった。1年目にして上位クラブの仲間入りを果たし順風満帆に見えた平塚だったが、以降リーグ戦ではパッとした成績が残せず古前田も監督を辞めフロントへ退いた。

後任の植木繁晴は95年アジアウィナーズカップで優勝し、アジア月間最優秀監督にも選ばれた。リーグ戦では97年のファーストステージ4位が最高で、その他の戦績は乏しかったものの98年まで監督を務めた。最大の功績は当時FW登録だった中田のゲームメイク力を評価し、トップ下へとコンバートしたことだろう。

「平塚」の消滅、「湘南」に改名

リーグ戦やカップ戦などで次第にタイトルから遠のくと同時に、クラブへの危機も迫っていた。

98年のフランスW杯にはクラブから中田を含む計4選手が選出された。しかし、W杯直後に中田はイタリア・セリエAのペルージャへ移籍し、99年には親会社であるフジタが経営再建からスポンサーを撤退。同時期に主力選手も次々に退団し、リーグ戦では年間でわずか4勝しかできずにJ2へ降格した。

奇しくも降格時の監督は94年にベルマーレ旋風を引き起こした古前田だった。前任からシーズン途中でチームを引き継いだとはいえ、名将を持ってしても流れを変えることはできなかったようだ。

低迷期となった2000年代

J2に降格したチームを引き継いだのは、V川崎で監督経験のある加藤久だった。この時、V川崎時代に獲得したアトランタ五輪代表のMF前園真聖(レンタル)を呼んだのだが、シーズン途中で解任されたため、成績も年間8位と低迷してしまう。

00年以降、監督が変わっては消えを繰り返し、遂に04年は1シーズンに3人もの監督(代行を含む)が交代した。定まらぬチーム方針とともに順位も中位から下位を行ったり来たりしていた。

浮上する糸口をつかみ始めたのは07年、菅野将晃体制の頃からだ。伝統を受け継いだこれまでの攻撃重視スタイルを止め、自身が現役時代に古河電工で培ったサッカーを根付かせた。任期の2年間で6位、5位と順位を上げ、プレーオフまであと一歩というところまで迫った。

反町、曹監督で再びJ1の舞台へ

09年から監督に就任したのはクラブOBでもある反町康治だった。かつて新潟をJ1へ昇格させ、人気クラブへと押し上げた実績を買われ就任した。

長丁場のJ2を戦い抜くため、ハードワークを厭わない選手の重用や新潟時代に指導した選手の獲得により、安定した成績でJ1への切符をものにした。だが、J2で見せた堅守がJ1で崩壊し、リーグ21戦連続未勝利というJ1ワースト記録も作り降格。3年目のJ2でもケガ人に悩み14位と低迷したため、退任となった。

12年から現在まで指揮をとる曹貴裁(チョ・グイジェ)は、攻守の素早い切り替えの維持(ノータイム・フットボール作戦)を掲げ、12年と14年にJ1へ昇格。また、15年も8位と定着に成功させた。

参入当初が湘南の黄金期とされるなら、2000年代は長い低迷期を過ごしたことになる。2010年代に入り独自の戦略を掲げた監督の就任によりJ1昇格に挑戦。現在もJ1定着化へ向け、奮闘を続けている湘南の今後の動きに目が離せない。