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最強助っ人から若手のホープまで。コンサドーレ札幌・背番号10の系譜

2017 5/15 09:56SOL
サッカー
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出典 ALF Sniper/Shutterstock.com

クラブ創設20年目を迎えたJ1リーグのコンサドーレ札幌。 これまでに数多くの名選手がプレーしてきたが、キープレーヤーが背負ってきた背番号はやはり10だ。 コンサドーレ札幌で背番号10をつけたプレーヤーたちを紹介する。

チーム創成期は、あのマラドーナの弟が身につけていた!

1997年はコンサドーレ札幌にとって、JFLに所属したラストイヤー。26勝4敗でJFL優勝を決めてJリーグ昇格を決めた1年だった。このシーズン10番を背負ったのは、サッカー史に名を残す元アルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナの弟である、ウーゴ・マラドーナ選手だった。
兄のようにヨーロッパで大成するには至らなかったものの、1995年にPJMフューチャーズに入団すべく来日し、以降、福岡ブルックス(現・アビスパ福岡)をJリーグ昇格に導く活躍を見せて1997年に札幌入りする。トップ下として攻撃の軸を担い、兄譲りの攻撃センスを見せつけて活躍した。元パナマ代表のデリー・バルデス選手と抜群のコンビネーションを披露し、在籍した2シーズンで15ゴールを挙げている。

マラドーナ弟に続き、あのテクニシャンの兄も札幌で10番を背負う

ウーゴ・マラドーナ選手の後を継いで背番号10を身につけたのは、ブラジルからやってきたアシス選手。彼の弟は元ブラジル代表のスーパーテクニシャンだったロナウジーニョ選手なのだ。
アシス本人は引退後はロナウジーニョ選手の代理人として活躍しており、ロナウジーニョ選手関連のニュースでもその名を目にすることがしばしばある。札幌には1999年に加入してJ2でプレイ。1シーズンのみ在籍だったが、攻撃的ミッドフィルダーとして33試合に出場し、9ゴールを挙げた。

チーム史上初の日本人選手10番は山瀬功治選手

南米からの助っ人が10番を背負ってきたコンサドーレ札幌にとって、日本人として初めて10番を背負ったのが2000年に入団した山瀬功治選手だった。
札幌で生まれ育ち、ファンの期待を背負い、加入2年目からチームの主力として活躍。限られた戦力で戦い抜いたこのシーズン、24試合に出場してチームのJ1残留の原動力となった。
なお、背番号10を背負ったのは2002年シーズンからだ。このシーズンは靭帯断裂の大怪我を負ったものの、序盤のチームを支える活躍を見せた。

ブラジル代表のパワフルストライカーも北の大地で10番を背負う

クラブ創設10年目にあたるシーズンだった2006年。このシーズンの背番号10は、またしてもブラジル人選手だった。川崎フロンターレから期限付き移籍で加入したフッキ選手は、当時20歳の若手フォワードながらこのシーズンに突如として覚醒。J2リーグ38試合に出場して25得点を挙げる大活躍を見せた。
札幌在籍は1シーズンのみで、東京ヴェルディ1969(当時)へと期限付き移籍すると、42試合に出場して37ゴールと大暴れしチームのJ1昇格に貢献した。その後、FCポルト(ポルトガル)、FCゼニト・サンクトペテルブルグ(ロシア)で絶対的なエースとなり、ヨーロッパの舞台でゴールを量産した。

2010年から10番を背負うのは地元出身のあの選手

フッキ選手が去った後の2008年に入団し、2010年から背番号10を背負うのが宮澤裕樹選手だ。地元・室蘭大谷高校出身、1年目からエースとして数多くのゴールを決め、「北海の爆撃機」の異名を取った。J1強豪クラブがこぞって獲得を希望するも、コンサドーレが地元の期待の星を見事に射止めることに成功。2シーズン目から石崎信弘監督の信頼を勝ち取り中盤の主軸として活躍し、3シーズン目からは背番号10を背負うことになった。
ゴールへの嗅覚も抜群でフォワードとしても活躍するほか、チームの戦力が整わない時期には最終ラインでもプレーするなどマルチな活躍を見せている。在籍10シーズン目を迎え、円熟味を増してきたコンサドーレを象徴する選手として、ファンからも期待されている。

まとめ

ブラジル人助っ人が中心に背負ってきたコンサドーレの背番号10。しかし、山瀬選手や宮澤選手など地元出身の選手がつける番号としても歴史を重ねている。
現10番の宮澤選手はエースナンバーを背負って8シーズン目。20年の歴史の中で最も長く10番を背負う選手に成長した。 生涯コンサドーレを貫いてくれそうな存在のこれからにも注目したいところだ。