サンフレッチェ広島とは
サンフレッチェ広島は、1938年に創部された東洋工業サッカー部(1981年にマツダサッカークラブに名称変更)が前身のチーム。なんと戦前にルーツをもつ、非常に歴史のあるクラブなのです。戦後間もない時期から天皇杯や実業団の大会で活躍し、1965年からは日本サッカーリーグに参戦。1960年代には黄金期を築くなど、日本サッカーの歴史に名を残すチームです。
Jリーグへは1993年の開幕時から参戦。そこには市民を始めとする様々なサッカー関係者からの要請もあったようです。Jリーグ開幕2年目の1994年にステージ優勝を果たしたものの、その後は長くタイトルから遠ざかり、2002年と2007年にはJ2に降格してしまいます。いずれも1年でJ1復帰を果たすと2012年、2013年、2015年にはJ1の年間王者に輝くなど、近年は強さを発揮しています。
「俺らの想い」
近年のサンフレッチェ躍進の立役者と言えば佐藤寿人選手。3度のJリーグ制覇に貢献し、得点王にも輝いたことがあるなど、まさにチームの象徴でした。J2に降格した際、主力選手はJ1のチームに移籍することも多いのですが、佐藤選手は誰よりもさきにチームへの残留を表明。中心に立ってチームを引っ張り見事J1復帰へと導いており、そのチーム愛からもサポーターからも愛される選手です。
そんな佐藤選手ですが2016年シーズンには出場機会が減少し、2017シーズンからは名古屋グランパスへと移籍。新たな舞台に旅立っています。
この移籍が噂されていた時期に、サポーターの佐藤選手、そしてチームへの熱い思いが感じられたエピソードがあります。2016年11月13日に開催されたファン感謝デーには、退団が噂される佐藤選手も参加していました。イベントが全て終了し、選手が退席したあと、サポーターがある横断幕を掲げます。そこには「佐藤寿人11」「俺らの想い寿人」「愛してる寿人」という言葉が書かれていました。
これまでにもサンフレッチェからは、槙野智章選手や西川周作選手、浅野拓磨選手など、日本代表でも活躍する数多くの主力級の選手が旅立っていきました。どの選手もチーム、サポーターにとって欠かせない選手であったことには違いありませんが、今回の佐藤選手へのサポーターの想いはより強いもののように感じられます。残ってほしいという気持ち、そして出場機会を求める選手への理解の双方が感じられます。結果的には移籍してしまうことになりましたが、サポーターのチームと選手を想う気持ちが表れたエピソードです。
サポーターのユニフォームがチームを救う
サポーターのチーム愛が少し変わった場面で発揮されたエピソードがあります。それはJリーグが開幕して間もない1995年に起こりました。
熊本県で行われた対横浜フリューゲルス戦。サンフレッチェは紫のユニフォームを着なければいけないところ、持ってきたのはフリューゲルスとかぶってしまう白。広島から紫のユニフォームを届けてもらうには時間がなく、スプレーで白ユニフォームを紫に染めようとしましたが、それも間に合いませんでした。
試合をするためには紫のユニフォームがないといけない。そんな窮地のサンフレッチェを救ったのがサポーターでした。なんと応援に来ていたスタンドにいるサポーターからレプリカの紫ユニフォームを借りたのです。ユニフォームにテープを貼って背番号にするというなんとも不思議なユニフォームで試合に臨むことになったサンフレッチェでしたが、延長Vゴールで勝利しました。
試合後にはJリーグからはユニフォームの不備から制裁金が課されるなど、プロチームとして起こしてはいけない事態ではありましたが、チームとサポーターがまさに一体となって戦った試合でした。
まとめ
ここまで、サンフレッチェ広島のサポーターについて紹介してきました。近年は優勝を果たすなど、たくさんの結果を残してきたサンフレッチェですが、その背景には多大なチーム愛を持つサポーターの存在がありました。今後もサンフレッチェとサポーターの活躍に期待したいところです。