進む世代交代
サッカーW杯はロシア大会を翌年に控え、日本代表は世代交代が進んでいる。長らく海外で活躍してきた香川真司、岡崎慎司のレギュラーは保証されたものではなくなった。そして、日本代表の顔として引っ張って来たこの男も例外ではない。
背番号「4」をまとう本田圭祐。
所属するイタリア1部セリエAの名門、ACミランでは試合に出ることすらままならず、試合勘の鈍りを指摘する声もある。もはや、ACミランの戦力とはなっておらず、中国への移籍交渉が進んでいるとの一部報道もある。
しかし、まだ30歳。もう一度輝けるチャンスはあるし、まだ日本にその力は必要だ。そう思わせるだけの魅力が本田にはある。
23歳の本田は逆境と闘っていた
本田を取材したのは、南アフリカW杯直前の2010年1月だった。地中海の青と、建物の白がまぶしい、スペインのアンダルシア地方に本田はいた。
その時の本田は23歳。オランダのVVVフェンロから、ロシアのCSKAモスクワに移籍したばかりだった。日本代表ではほとんど結果を出しておらず、今のような中心的な存在ではなかった。だが、オランダでの活躍から、切り札への期待が高まっていた時期でもあった。
CSKAモスクワに合流して1カ月ほどの時で、スペインは欧州チャンピオンズリーグに向けた合宿地だった。
ロシアのチームは閉鎖的なのか、なかなか練習を見せてもらえなかった。それどころか、どこで練習をするかも教えてもらえず、レンタカーでチームのバスをつけていった思い出がよみがえる。もちろん、練習場には入れてもらえないから、ボール拾いをしていたら、入れと言われた。
そこで見た本田は、およそレギュラーになれるような扱いを受けていなかった。
パスを回してもらえない
本田と言えば、無回転のフリーキックがあり、セットプレーのキッカーのイメージがあるが、キッカーの2番手か3番手として練習をしていた。
日本語の通訳はいなかった。時には練習内容が分からず、右往左往していた。紅白戦ではフリーでいても、パスを回してもらえない。「ヘイ」と自己主張する声が、むなしく響いていた。
「こっちのプレーの引き出しを知ってもらっていない。試合で活躍しないと信頼が得られない」
本田は苦しんでいた。
でも、ただ嘆くだけではなかった。
日々勝負
セットプレーの練習では、首脳陣の考えが違うと思えば、英語で食い下がった。勝ち気なコメントで知られる本田の真骨頂だった。「はっきりと言わないといけない」。それを、新しいチーム、それも海外のチームでできる。
パスは来なくても、認めてもらうために、練習では先頭を積極的に走った。
「一日一日が勝負」
そう語っていたのを思い出す。
仲間がいいプレーをすれば、誰よりも大きな声でほめた。そして、意外と思われるかもしれないが、チームメートと積極的にコミュニケーションをとった。自分を売り込むためだ。
練習後はくたくただった。午後にホテルの部屋に電話をかけると、寝ぼけた声が受話器の向こうから聞こえてきた。本当に日々、全力だった。
リスクを取らなければ前には進めない
話は前後するが、CSKAモスクワに移籍する前にいたオランダのVVVフェンロは当時、本田のチームだった。本田が攻撃をつかさどり、本田を中心に回っていた。
でも、彼はそんな立場をあっさり捨てた。なぜなのか聞いた。
「ステップアップするにはフェンロにいても無駄」
「リスクはあるが、リスクを乗り越えた時にはそれなりの見返りがある。それに挑戦したいのが僕の性格」
そんな答えだった。強いなと思った。内弁慶の日本人のイメージはみじんもなかった。こんな日本人が海外で成功してほしい、いや、成功するだろうと思った。
そして、2010年W杯。本田は2得点を挙げ、日本のベスト16入りへ貢献。日本のエースとなった。
そんな本田を見てきたから、このまま引き下がるとは思えない。もちろん、全盛期の身体能力はないかもしれない。でも、彼の屈強な精神力は、世界で戦う日本代表には、まだ欠かせない。