ライセンスとは何のためのものか、選手を守ることに集中
そもそも、コーチングライセンスとは、どんなものなのか。サッカーの知識を深め、広く普及させ、優秀な指導者を育成するのに有意義なシステムであることは間違いない。
世の中にはライセンスが必要な物事は確かにある。医師免許は人々の健康や命を守るために必要だ。そういう意味であれば、選手の健康や安全を守り適切な指導を行うためのカリキュラムを短期間で修了できる制度を導入するのはどうだろうか。
日本であれば、そういったカリキュラムをS、A、B、C、D級の指導者ライセンスに含めても、別の資格としてもよいので一定レベルのチームで指導する際に必須とするべきである。そして、既存のライセンスの内容は、あくまでコーチのレベルを測る「目安」とし、絶対的な「基準」とすべきではない。取得に何年もかかるようなライセンス要件を設けるのは、指導者、クラブ、サッカー界全体のためにならない。
ライセンス取得ではなく受講を基準にして、待ち時間省略
サッカーの技術的な部分は、勉強して改めて、指導者として得るものもあるが、サッカー人であれば、既に経験から感覚的に基本原則を理解していることも多い。サッカーとは非常にシンプルで分かりやすいスポーツであって、だからこれだけ普及している。そして、決まり事が少ない競技で自由がある分、奥深さがもたらされる。その奥深さは個性の部分であり、講習で教わっても教わっていなくても、間違いにはならない。
現在はスポーツ科学が進歩し、データ分析、医学、心理学、栄養学、フィジカルトレーニング等の専門分野が分化していることからも、サッカーコーチだけで最高のチームをつくることは不可能だ。
現在のライセンス制度をどうしても残したいというなら、合格ではなく、受講することを条件にすればよい。そうすれば、ライセンス過程を修了していなくても、受講さえすれば、待たずに指導を行うことが出来る。S級の下位に値するライセンスを保持していなければ、その下の級からS級まで全て申込みを済ませ、地道に進めばよい。合格するかは各自の努力次第で、受講している限りは、指導が許されるというのが望ましい。
厳格な基準はクラブや指導者から個性を奪う、学びは十人十色
現在、Jリーグは3部まで拡大し、今後もクラブ数は増え続けるだろう。そういった地域のクラブが、S級ライセンス保持者しか招へい出来なければ、Jリーグは同じような指導者が指揮を執り魅力は半減してしまう。
例えば、普段は漁師を職業としていて、少年世代で秀でた成果を出している指導者がいるとする。しかし、仕事が忙しいため高位のライセンスを所持していない場合、Jクラブのフロントがどれだけ惚れ込んでも、オファーを出すことは出来ない。これは地域のクラブから特色を奪う行為だ。指導者には実に様々なタイプがおり、それを画一的にライセンスで束縛してしまっては、サッカーの魅力が半減される。
格闘家の所英男は「闘うフリーター」と呼ばれ、アルバイトをしながら頂点に上り詰めた。マラソンのトップランナー川内優輝は、埼玉県の地方公務員をしながら競技に打ち込み、「市民ランナー」として人々に愛される。この様な個性豊かな人物にファンはストーリーを感じるのである。
Jリーグで指揮を執る監督は、長期間のカリキュラムを修了したライセンス保持者なので、安心して観戦して下さいと言っても、興味は薄らぐばかりだ。
資格とは人々の個性の一部であって、全てではない。ライセンス講習から学ぶこともあるが、他の経験から学び、それをサッカー指導に還元出来ることも、またしかりだ。元日本代表監督のイビチャ・オシムは、ユーゴスラビア紛争で家族と引き裂かれた状態でサッカー指導を続けた。この戦争体験で、オシムの言葉は深みを増し、ウィット(機知)に富んでいるのだ。
サッカーは芸術、創造性奪う規制は撤廃すべき
サッカーは自由なスポーツで、大衆に愛される一大エンターテインメントだ。例えば同じくエンターテインメントである演劇を行うにあたり、劇団のキャスティングに博士号が必要だと言われたとしたら、それは的外れな考えだろう。サッカーには、人を魅了する個性、選手が交じり合い織りなすハーモニー、人々を感動させるといった芸術の要素がある。正解は無く、どんなに学んでも、試合に勝つために決まった数式など存在しないということだ。
指導者ライセンスは、サッカーの価値を高めるためのものであるべきで、阻害するものであってはならない。クリエイティビティを奪う不要な規制は撤廃し、改革することが急務だ。