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【1980年代の衝撃!】サッカー界が揺れた注目の移籍と結果に迫る!


1984年!ナポリとともに生きる男、ディエゴ・マラドーナ

ディエゴ・マラドーナ氏(以下、敬称略)は、アルゼンチンとSSCナポリ(以下、ナポリ)を代表するサッカー選手だ。
1984年にナポリに加入して以来、1991年まで188試合に出場し81得点を挙げた。ナポリはこのマラドーナとともに、2度のリーグタイトルを獲得している。「ナポリの王様」と呼ばれた彼の背番号10は永久欠番となっている。エースを意味する10番が、永久欠番になることの重みは大きいだろう。

マラドーナは小柄ながらフィジカルコンタクトにも長け、スルスルと抜け出すドリブルを得意とする。1986年のワールドカップで披露した5人抜きゴールが良い例だろう。易々と抜かれていく相手選手たちは、まるでマラドーナを止める気がないようにさえ思える。

マラドーナが抜けてからのナポリは、成績低迷やセリエBやCへの降格を経験。タイトルに恵まれない時代が続いている。
それ故に当時の時代を懐かしみ、今でもマラドーナを慕うサポーターも多い。もちろん、彼の破天荒でありつつも、人懐っこい性格も人気の理由だろう。ナポリの試合においては、マラドーナのイラストが描かれたフラッグが振られることが今でもある。

2017年にはナポリの栄誉市民の称号を得ることが決定し、多くの人々が賞賛した。マラドーナは、ナポリ退団から何十年経とうとも、ナポリの街と人々とともに生きる存在なのだ。

1982年!数多のスターを押しのけて、ミシェル・プラティニ

1982年にユヴェントスFC(以下、ユヴェントス)に加入したのが、ミシェル・プラティニ氏(以下、敬称略)だ。ジネディーヌ・ジダン氏同様に、フランスを代表する存在だ。
プラティニは得点力の高さもさることながら、ゲームメイクに長けていた。相手に読まれにくいコースや角度からパスを繰り出すことができ、試合の展開を1人で左右することができる。まさに攻撃のタクトを振るうことができる選手であった。

プラティニが加入したユヴェントスには、プラティニ以外にもパオロ・ロッシ氏、マルコ・タルデッリ氏、アントニオ・カブリーニ氏といった、1982年のワールドカップで優勝したイタリア代表の選手たちが数多く在籍していた。イタリアのクラブであるユヴェントスにおいて、彼らの存在は大きかったが、プラティニは彼らを押しのける活躍を連発した。加入2年で2連続のリーグ得点王やリーグタイトルの獲得、UEFAカップウィナーズカップ(かつてCLと同列にあった国際大会)などで優勝を経験している。

現役引退後はフランス代表監督や、UEFAの会長、FIFAの会長を務めるなど、多方面で活動した。もっとも、2015年にはそのFIFAにおける汚職事件への関与を疑われ、サッカー界から姿を消してしまうのだが、今でもプラティニを慕う声は大きい。

1986年!セルビアの赤い星、ドラガン・ストイコビッチ

ドラガン・ストイコビッチ氏(以下、敬称略)は、日本の名古屋グランパスエイトの監督としてよく知られる人物であるが、現役時代にはセルビア(旧ユーゴラスビア)の選手として活躍した。彼のあまりにも有名な愛称である「ピクシー」は、彼が小さい頃に観ていた『ピクシー&デュクシー』というアニメ作品に由来する。

1986年には地元クラブのFKラドニツキ・ニシュから、セルビアの名門レッドスター・ベオグラード(以下、レッドスター)に移籍する。レッドスターは、この年から5年間を欧州の最高峰に立つための5年間とし、長期的な計画を立てた。残念なことに国際的なタイトルには恵まれなかったものの、国内リーグは5シーズンの間に4回も制覇し、国内カップでも好成績を収めた。ストイコヴィッチはその間に3年連続でMVPを獲得している。

1989年には24歳という若さながら、クラブの最も優れた栄誉である「星人」の称号を得る。この称号はクラブにおける貢献度を表すものであり、サッカー選手としての実力、人々からの人気、選手自身の人柄を考慮された上で得ることができる。
ストイコヴィッチの受賞は、1945年のクラブ創設以来、5人目であり「第5の星」とも称される。

これほど名のある選手がJリーグのクラブを指揮していたのは、とても喜ばしいことではないだろうか。「星人」の名にふさわしい人格者の彼には、日本のサポーターからも支持が集まっていた。
なお、2015年には中国の広州富力の監督として手腕を発揮している。

1988年!まさかのバイエルン離脱と復帰ローター・マテウス

ローター・マテウス氏(以下、敬称略)は、ドイツを代表するサッカー選手だ。クラブでは1984年にFCバイエルン・ミュンヘン(以下、バイエルン)に加入し、中盤で躍動した。

「ドイツの闘将」の愛称を持つ彼は豊富な運動量を活かしてボールを奪取、そのまま前線へと突き抜けるように走り、ミドルシュートを放つ。パスセンスにも光るものがあり、彼のボール奪取を起点として味方の攻撃が動き出すような場面が多かった。

しかし、1988年にはインテルナツィオナーレ・ミラノ(以下、インテル)に移籍してしまう。バイエルンで一定の地位を得ていただけに、この移籍に疑問の声が投げかけられることもあったが、結果的にはこの移籍は功を奏した。バイエルン時代以上に攻撃のセンスを磨いただけでなく、チームを牽引するキャプテンシーを発揮し、1988-89シーズンのリーグタイトル獲得に貢献した。

そして1992年に再びバイエルンに復帰し、ピッチ内外で他の選手たちの模範となった。

現役を退いてからは、ご意見番としてサッカー界の様々な事象(特に移籍金に関することなど)にコメントしているようだ。

1987年!ミランの黄金時代を築いた2人、フリット&バステン

ACミラン(以下、ミラン)の黄金時代は、1986年に会長に就任したシルヴィオ・ベルルスコーニ氏、1987年に加入したルート・フリット氏(以下、敬称略)とマルコ・ファン・バステン氏(以下、敬称略)によって築かれたといってよいだろう。

フリットは、広いエリアでプレーすることができ、ピッチを縦横無尽に駆け巡りながら前線にボールを運んだ。

ファン・バステンは、足元でピタッとボールを止めることができ、どんな不安定な状況でもゴールを生むことができた。その華麗なプレーの数々により、「ユトレヒトの白鳥」と呼ばれた。

その後、フリットは1993年にミランを退団し、ファン・バステンは1993年で現役を引退した。彼らがいなくなった後のミランは精彩を欠き、これまで通りのタイトル獲得の連発が不可能になった。
オランダが母国のファン・バステンの引退に際しては、「マルコのいないサン・シーロ(ミランの本拠地)は、羽のない風車だ」という横断幕が掲げられ、サポーターは彼の引退を大いに嘆いた。
フリットは、1994年にミランに復帰するも、孤軍奮闘といった苦しい時間を過ごした。

彼ら2人の存在がミランにもたらしたものは非常に大きく、そして彼ら2人の抜けた穴も非常に大きかった。

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