そもそもはヨーロッパ・南米発祥のスポーツ
ブラインドサッカーは障がい者の方、特に目が不自由な方にも何とかサッカーを楽しむ方法はないか、という趣旨で1980年代に開発されたスポーツです。
現在は、国際的な障がい者スポーツとしてIBSA(International Blind Sports Federation:国際視覚障がい者スポーツ協会)がルールなどを統括しています。
国際ルールが日本に導入されたのは2001年のことであり、日本においては非常に歴史の浅いスポーツです。
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パラリンピック種目でもあるブラインドサッカー。障がい者の方を中心にプレーされるスポーツであるため、どうしても一般的にはなじみが薄いと思います。 その歴史をみても、日本に上陸したのは2001年と比較的最近の様です。 今回はブラインドサッカーの歴史について解説します。
ブラインドサッカーは障がい者の方、特に目が不自由な方にも何とかサッカーを楽しむ方法はないか、という趣旨で1980年代に開発されたスポーツです。
現在は、国際的な障がい者スポーツとしてIBSA(International Blind Sports Federation:国際視覚障がい者スポーツ協会)がルールなどを統括しています。
国際ルールが日本に導入されたのは2001年のことであり、日本においては非常に歴史の浅いスポーツです。
もっとも、日本でも独自に視覚障がい者がサッカーを楽しめるよう、ルールを考案し、ブラインドサッカーそのものはプレーされてきました。
具体的には、盲学校で独自のルールを考案し、プレーしてきた歴史があります。1990年代には千葉県立千葉盲学校で「ペガサス」というチームが発足し、テレビに取り上げられたこともあったようです。
そうした中、2001年9月に当時アジアで唯一ブラインドサッカーを導入していた韓国に向かった使節団がきっかけとなり、国内にあった英文のルールとわずかな映像を基に、JBSAの前身が発足することになったのです。
2001年11月11日に日本視覚障がい者サッカー協会(JBFA)の前身となる「音で蹴るもうひとつのワールドカップ実行委員会」の発足式が大阪で行われてからは日本国内での普及は急速に進みました。
それだけ、視覚障がい者の方のサッカーへの欲求が強かったということなのでしょう。
2002年5月に韓国・ソウルにて行われた日本対韓国、同年8、9月に岐阜・高山、神戸にて行われた日本、韓国、ベトナムの3ヶ国によるアジアフレンドリーシップカップを経て、2002年10月、JBFAが正式に発足する運びとなりました。
2003年に初めて実施された日本視覚障がい者サッカー選手権は、今まで15回の歴史を数えています。
当初は3チームの参加のみでしたが、現在では11チームの参加、と参加チームも増えています。
また、日本選手権とは別に、東日本選手権、西日本選手権もそれぞれ開催されている上、地域大会は、関東リーグ、関西リーグ、東北北信越リーグ、九州四国リーグと4つの地域に分けられて実施されています。そして、その地域リーグの上位チームが出場できる「フィアットカルチョ」(旧プライムカップ)も春に行われる等、各地で大会が開催されるようになりました。
日本代表はパラリンピックに出場した経験は現在のところありません。
リオデジャネイロパラリンピックでは、悲願の初出場をかけて予選に臨みましたが、残念ながら出場はかないませんでした。
アジア選手権優勝など徐々に力は付けているものの、世界選手権でも1点も取れずに敗退したり、上記のようにパラリンピック出場を果たしていなかったりと、世界との間にはいまだに壁がある競技といえます。
一方、世界ランキングも7位まで上がるなど着実に力は付けています。
ここまで述べてきたように、ブラインドサッカーは日本に国際的なルールが導入されてまだ20年未満のスポーツです。 もっとも、次回2020年の東京パラリンピックでは、開催国枠での初出場が確約されています。 こういった点も踏まえ、世界的なレベルにどう押し上げていくかが日本代表の今後の課題といえそうです。