「ミスター・ラグビー」平尾誠二 花園出場は自身の成長と共に
2016年10月20日。「ミスター・ラグビー」と呼ばれた平尾誠二氏が京都の病院で亡くなった。享年53だった。その早すぎる死は、ラグビー選手だけでなくラグビーファンにも衝撃を与えた。
平尾氏は1963年京都市に生まれた。小学生時代は野球をしていたが、中学ではラグビー部を選択する。その理由は「野球より簡単にレギュラーになれそうで、楽しそう」だったからだという。楽しそうなラグビー部を見なければ、「ミスター・ラグビー」は誕生しなかったのだ。
中学3年時に平尾氏は、オール京都に選ばれるほどの選手に成長する。ラグビーの名門、花園高への特待生入学も決まりかけていたが、そこに「待った」をかけたのが、伏見工のラグビー部の山口良治監督だった。平尾氏のプレーに惚れ込み、家にまで勧誘に来たのだ。
名門「花園高」と実績もなく不良の集いと呼ばれていた「伏見工」。両親はもちろん「花園校」への進学を望んだが、平尾氏の出した答えは「伏見工」への進学だった。
伏見工は山口監督指導のもと、ラグビー強豪校を目指した。その練習は過酷で、心が折れそうになったこともあるという。それでも平尾氏は練習に励み、高校1年時の京都府大会で決勝まで進む。決勝相手は「花園高」だった。結果は敗北。名門校相手に敗れてしまった伏見工、平尾氏にとってはそれ以上の気持ちもあったのだろう。準優勝のトロフィーを試合の帰りに投げ捨てて帰った。
2年時には全国大会(花園)に初出場を果たし、3年時には全国大会で優勝を飾る。不良校から全国トップのニュースはすぐに広がり、ドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルになったのも頷ける話だ。
その後、平尾氏は同志社大、神戸製鋼、日本代表、ワールドカップとラグビー界で貢献を果たす。現役引退後は指導にも力を入れ、ラグビー日本代表監督にも就任した。人気、実力、人間性、を兼ねそろえた平尾氏は、間違いなく日本ラグビー界のレジェンドである。
破天荒な天才 松尾雄治 花園出場は運命的に
スポーツコメンテーターとしてテレビやラジオに出演している松尾雄治氏は、かつて天才と呼ばれたラグビー選手だ。2011年の東日本大震災の際に釜石シーウェイブスや新日鉄の有志たちと共にNPO法人スクラム釜石を発足させ、現在もラグビーを通して復興活動を行っている。
松尾氏は1954年に東京で生まれた。父親が元ラグビー部員であり、小学生の頃からラグビーを始めた。「勉強をする時間があったらラグビーをしろ」という松尾家の風潮の中、当時はあまり勉強をしないでも進級できる成城学園で、幼稚園から過ごす。
ラグビー一筋の松尾氏に変化があったのが、高校1年生の頃だった。「勉強もスポーツもする」という校風に変わり、それまで授業に出ずにラグビーの練習をしていた松尾氏に、学校側から苦情が出るようになった。
そこで「勉強もしなさい」という父親ではなかった。成城学園を退学し、ラグビーの名門、目黒高校へ編入させたのだ。目黒高校でも授業に出ずラグビー三昧の日々を送る松尾氏は、高校3年時に「花園」へ出場、準優勝を飾る。
その後は明治大、新日本製鐵釜石ラグビー部、日本代表(大学生時に選抜)など、華々しい活躍をしラグビー界に貢献したのだ。
強靭な肉体とキャプテンシー 元木由記雄 花園は近くて遠い
対戦相手の骨がきしむ音が聞こえる強烈なタックル、緻密なパス、多大なるキャプテンシーを持つ元木由記雄(もときゆきお)氏は、現役時代に「鉄人」と呼ばれる強靭な肉体を武器にチームを幾度も勝利に導いた。現在は京都産業大学でヘッドコーチをしながら、精力的にラグビーの普及活動をしている。
元木氏は1971年大阪府東大阪市出身だ。東大阪市といえば「花園」のお膝元であり、ラグビーが盛んな地域でもある。元木氏が本格的にラグビーを始めたのは中学生になってからだった。当初ポジションはNO8だったが「日本代表になりたければCTBに行け」と勧められ、そこから才能が開花する。
高校はラグビーの名門、大阪工へ進学するとラグビー一色の生活になる。練習とトレーニングの日々だ。元木氏は筋肉強化のため淀川の河川敷に行き、自分の背丈の半分ほどの穴を延々と掘り続けるというトレーニングを行った後、自宅でもウエイトトレーニングをかかさずこなした。
高校2年時に「花園」へ出場し、決勝戦まで進むが決勝当日の朝、昭和天皇の崩御に伴い試合は中止、両校優勝で幕を閉じた。単独優勝を目指した3年時には「花園」出場は叶わず、この悔しさをバネに明治大へと進む。
その後は大学、神戸製鋼、日本代表(大学生時に選抜)と活躍をし、2010年に現役を引退した。引退後すぐコーチに就任、U20日本代表ヘッドコーチを経験するなど、その指導力にも期待がもたれている。